第十八話「死は、覆せぬ壁」
白いクロスの上で、注がれたばかりの紅茶が、まだ湯気を立てていた。
三段の菓子皿にはスコーンとサンドイッチと苺のタルトが行儀よく並び、庭の芝は朝露を含んで艶やかに光り、水面は雲ひとつない空をそのまま映している。露天風呂のほうからは、ゆるやかに湯の匂いが流れてきていた。
その…およそ世界のどこよりも平和な庭の真ん中で、勇者イグニス・バロウは聖剣を抜き放った。
白熱した刃が朝の空気を灼き、芝の上へ長い陽炎の影を落とす。
「お前、態度が一変したな。今のお前の方が好きだぜ」
「……いいだろう、俺と勝負しろよ」
彼は剣先をシンへ突きつけると、ギラつくように笑った。
「その魔女を賭けて、俺と勝負だ! 実に分かりやすいだろ!」
「勝負じゃと? 何を勝手にほざいておる、ワシは物ではないのじゃぞ!!」
立ち上がりざまに怒鳴りつけたエルミニアの声は、しかし語尾のあたりで、萎むように途切れてしまった。
彼女は生まれて初めての状況に置かれていた。長年、力を求められ恐れられ…利用され、そのすべてを鼻で笑って生きてきた二千年以上の間に、こんな出来事は、起こらなかったのだ。
(男二人がワシを巡って争っておるのか、これは?)
(な、なんじゃこれは。ワシはどうすればよいのじゃ?)
(止めるべきか。ワシが一喝すれば、両方とも黙る…のじゃろうか?……じゃが、止められるのか? ワシは…止めたいのか?)
エルミニアは、庭の隅で両手をわなわなと頬に当て、耳の先まで真っ赤に染めながら、二人の男を交互に見比べていた。
そのかたわらでは、十六体のメイドが、すでに寸分の狂いもない観戦の陣形を組み終えている。
「奥様。お茶をお持ちいたしました」
セバスチャンが恭しく椅子を引き、ひざ掛けまで添えて、特等席をこしらえて待っていた。
「み、見物ではないのじゃーーー!!」
絶叫しながらも、彼女の膝は、実に素直に折れていった。
(……じゃが、座ってゆっくりするのじゃ)
*
勇者イグニスが先制した。
姿が、芝の上から掻き消えた。
『烈火限界突破』。
溜め込んだ熱量のすべてを推進力へ変換したその踏み込みは、人の目に軌跡すら残さない。焼き払われた空気が悲鳴のような音を立て、彼が通り抜けたあとの芝だけが、遅れて内側から炭化していく。
シンは、動かなかった。
目がその動きを追っていた。
白熱した戦斧が真上から振り下ろされ、その一撃が生む圧が庭のすべてを叩き潰そうとした、まさにその刹那――彼はただ、右手を軽く上げただけだった。
衝撃波が、掻き消えた。
音もなく、余波もなく、まるで最初からそこに存在しなかったかのように。
次の瞬間、遥か上空、結界の外側で、山を割るような轟音が炸裂した。
「――は?」
イグニスの顔から、笑みが抜け落ちる。
その光景を、椅子の上のエルミニアは、紫紺の瞳をこれ以上ないほど見開いて凝視していた。
(……いまの反応速度は、常人のそれではない。さすがは勇者…と言うほかないのう)
(じゃが、それ以上に――シンのやつ、あの衝撃波を、まるごと結界の外へ転移させおったか)
(あの一瞬で、全てを読み切ったというのか。まさかあやつ、未来視とでも呼ぶべきものまで、持っておるのではあるまいな……?)
シンにしてみれば、庭を壊されては困る、というだけの話であった。だから少し先の未来を見たのだ。
彼は上げた右手を、そのまま、ほんのわずかに動かした。
『限定時空間操作』――転移。
このスキルは、斬るのでも砕くのでも、焼くのでもない。別の場所に移動するだけである。
イグニス・バロウの頭蓋の内側にあったものが、その原則に従って、素直に移動した。
――彼から数歩離れた場所で、宮廷魔法使いヴァルド・オルセンの両手のひらの上に、生温かい重みが、ぽとりと落ちた。
「――う」
ヴァルドは、それを見た。
「うわぁぁぁあああああああッ!!」
絶叫とともに彼が放り出したそれは、芝の上を二度ほど跳ねて、ころりと転がった。
音は、しなかった。血も、出なかった。傷など、髪の一筋ほどもついていない。
赤髪の少年は、白熱した戦斧を振りかぶった姿勢のまま、糸の切れた操り人形のように、前のめりに崩れ落ちた。
絶命であった。
勇者一行の三人は、その場に立ち尽くしたまま、ぽかんと口を開けていた。
彼らの目には、何ひとつ映らなかったのである。剣戟の火花も、術式の光も、血飛沫すら見えなかった。エプロン姿の男が右手を上げ、それから少しだけ指を動かし、そうしたら勇者が死んでいた。あまりに淡々としていて、あまりに静かだった。
だからこそ、勇者一行は理解より先に凍りついた。
*
椅子が、後ろへ蹴り倒された。
「シンッ!! 勇者は殺してはだめなのじゃーーー!!」
エルミニアの絶叫が、庭を突き抜けていく。
シンは心底不服そうに、舌打ちをひとつ落とすと、ぼりぼりと頬を掻いた。
「ちっ」
「えー。でもなー」
彼はそこを、はっきりと強調した。
「俺のエルミニアさんに、ちょっかいかけたからなー、このド三流勇者は……」
「頼むのじゃーー!」
――二千年、誰にも頭を下げたことのないエルミニアが、頼んでいた。
シンは、僅かに止まった。
「……仕方がないなー」
彼は面倒くさそうにしゃがみ込むと、転がった亡骸へ、無造作に手を触れる。
「おい、ド三流。エルミニアさんに感謝しろよ」
時が、巻き戻った。
芝の上に落ちていたものが、あるべき器の中へ音もなく収まっていき、止まっていた心臓が、太鼓を叩くように動きはじめる。灰色に沈んでいた頬へ血の色が戻り、赤髪の少年は、大きく息を吸い込んで、その目を見開いた。
彼には、何が起きたのか、まるで分かっていなかった。
自分がなぜ地面に転がっているのかも、なぜ剣を取り落としているのかも、理解できていない。ただ勝負の途中だという意識だけが残っていたので、彼は跳ね起きて聖剣を拾い上げると、素早く距離を取って、再びシンと対峙した。
「……いま、何をしやがった」
「さあ?」
イグニスは、また突っ込んだ。
「何度やっても結果は同じだよ」
そして、勇者はまた……崩れ落ちた。
――ヴァルド・オルセンの両手の上に、ふたたび、生温かい重みが乗った。
「うわぁぁぁあああああッ!! なぜ私の手にッ!! なぜ私の手なのですかッ!!」
*
三度目からは、もはや、戦いなどと呼べるものではなかった。
庭の芝の上で起きていたことを、勇者一行の三人は、ただ突っ立ったまま眺めているほかなかった。
赤い髪の男が立ち上がり、崩れ落ちる。エプロン姿の男がしゃがみ込み、手を触れる。赤い髪の男がまた立ち上がり、また崩れ落ちる。それだけが、朝の陽射しの下で、淡々と繰り返されていく。
そのあいだ、十六体のメイドは微動だにせず、セバスチャンは冷めた紅茶を静かに淹れ替えていた。この庭では、それがごく当たり前であるかのように、時間が流れつづけている。
重騎士ダウグリムの膝が凄まじく震えいた。現実として受け入れられなかった。しかし、本能がわかっていたのだ。
魔王の眷属を前にしても一歩たりとも退かなかった巨躯が、いま、自分の意思とは無関係に震えが止まらないでいた。
斥候フィッチャーは、後ずさりざまに足をもつれさせ、無様に尻もちをついた。彼はもう、退路を探すことすらやめていた。この庭には、退路など最初から存在しないのだと、彼の直感が正確に告げていたからである。
そして、ヴァルド・オルセン。
顔面から血の気が失せ、両手を前へ突き出したまま、彼は歯の根も合わぬほど震えていた。
(……いま、突然この手の中に現れたのは。人の――脳、なのか?)
(それに、勇者様が起き上がったのは。そ、蘇生……なのか? ……いや、蘇生魔法などはない。存在しないはずだ)
(各国の魔法研究機関が、幾多の高名な魔法使いが、何百年もの研究の果てにたどり着いた答えは「不可能」だった。死者は生き返らない。それがこの世界の常識である。だからこそ、誰もが死を恐れて生きているのだ!)
(それが――なんで、あんな男が……)
震えは、いっこうに止まらなかった。
彼は自分が見ているものを、まるで理解できなかった。恐怖だけが、心と本能とを正確に貫いていた。
四度目にイグニスが崩れ落ちたあと、シンはエプロンの埃を軽く払って、実に気だるげに息を吐いた。
「段々、面倒くさくなってきたなー」
「なあ、お前じゃどうあがいても俺には勝てねーよ。もう終いにしないか?」
*
四度目の蘇生を受けたイグニス・バロウは、それきり、立ち上がれなかった。
傷はひとつもない。息も乱れていない。手足はどこも壊れていない。それなのに、彼の膝は芝の上でがくがくと震え、握った聖剣の柄が、かたかたと音を立てていた。
なぜ自分が震えているのか、彼自身にも分からなかった。ピンチであるほど燃え上がる男である。恐怖という感情を、彼はほとんど持ち合わせていないはずだった。
だが、この男を前にすると、心が拒絶するのだ。
理屈ではない。彼の魂そのものが、目の前の男を、命の底から恐れていた。
シンが、五度目の手を伸ばそうとする。
その袖を、褐色の手がそっと掴んだ。
「もうよい。もうよいのじゃ、シン」
「もう、やめるのじゃ」
――彼は、しばらくして…手を下ろした。
エルミニアは、ひどく恐ろしいものを見た気がした。
(……シンは、ワシが絡むと、歯止めが効かなくなる…のじゃな)
(神に近い権能を持ち、死すら覆し、そのくせ何ひとつ躊躇せぬ。あれほど優しい男がじゃぞ)
(そして、この男を止められるのは――)
(ワシだけじゃ)
(ワシが絡むと……ワシが……ワシだけ……)
背筋を這い上がってきたのは、恐怖であった。
だが、まったく別の感情が、身体の奥をゆっくりと満たしはじめる。
エルミニアは両手を頬に当てると、椅子の上で、ひとり身体をくねらせていた。
「……ふふ。ふふふふ」
誰かに何かを吹き込まれたわけではない。彼女の耳飾りは、あらゆる精神干渉を完全に無効化する。
つまり、このエルミニアの気持ちは、紛れもなく、彼女自身の本心であった。
*
「おい、勇者一行! 全員正座! 早くしろ!」
シンの一喝が飛んだ。
なぜ、と考える暇すらなかった。四人の身体は、意思より先に従っていた。
膝が折れ、踵が地につき、背筋が伸びる。世界に四人しかいない勇者と、その仲間たちが、朝露の残る芝生の上で、揃って正座していた。
自分がなぜ正座しているのか分からず目を白黒させる勇者と、顔面蒼白のまま歯を鳴らす宮廷魔法使いと、どうにも納得のいかぬ顔で唸る重騎士と、そして状況を誰よりも正確に理解してしまったがゆえに、ぼろぼろと涙をこぼしている斥候である。
シンは腕を組んで、その前へ立った。
「いいか、お前ら。これから大事な話をするから、一言一句、聞き逃すなよ」
「いいな!」
「は、はいー」
そして彼は、実に堂々と、宣言した。
「エルミニアさんは、俺のものです」
「俺の、将来お嫁さんになる人です」
「こんど人の女に手を出したら、これ以上のことをするからな」
――「これ以上のこと」が何を指すのか、この庭にいる誰にも分からなかった。
分からないからこそ、それは何よりも恐ろしかった。
勇者一行は、芝生に額をこすりつけて、土下座した。
「申し訳ございませんでした。もう二度と、エルミニア様には手出し致しません」
そう口にしてから、イグニスは、自分でも訳が分からなくなった。
なぜ俺はこんなことを言っているのか。何ひとつ理解できない。それでも心が、本能が、腹の底から叫ぶのだ。
――この男には、絶対に逆らってはならない、と。
シンは腕を組んだまま、実に満足げに、深々と頷いた。
「わかればよろしい!!」
なぜか異様に偉そうであったし、そして、エプロン姿のままであった。
庭の隅では、エルミニアが顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。
(……俺のものと、言うた)
(将来、お嫁さんになる人と……)
(ワシは、まだ、なんとも言うておらんのじゃが)
――そして彼女は、それを訂正しなかった。
*
土下座の列からイグニスだけが、そっと顔を上げた。
血の気の引いた顔で、手はまだ震えている。それでも彼は、まっすぐにシンを見つめ、おずおずと片手を挙げた。
「…………あのー、質問が、あるんだが」
庭が、静まり返った。
「あんた、いや……あなた様は、死んだやつを戻せるのでしょうか?」
誰も動かなかった。
「――もしそうなら…お願いします」
「爺さんを、戻してくれ。……いや、下さい」
傲慢も勧誘も下心も、そこには一片も残っていなかった。
この男は、ただ…それのためにここまで来たのだ。魔女が欲しかったのではない。爺さんの空けた穴を、埋めたかっただけである。
毎晩のように聞かされた「大師匠」の昔話も、火が怖くて手を震わせていた子供の話も、その全部を抱えたまま、彼は三日も森の外をぐるぐると彷徨っていた。そうまでして辿り着いた先に、死んだ者を確かに引き戻す男が立っていたのだから、その口から零れた願いは、もはや懇願というより、祈りに近かった。
シンは、しばらく黙っていた。
そして、静かに尋ねた。
「……綺麗な保存状態の、遺体はあるの?」
イグニスは、答えなかった。答えられなかった。
重騎士ダウグリムが、代わりに、喉の奥から絞り出すように言った。
「……いえ、ありません」
「灰も、残らなかったんだ」
シンは、ゆっくりと頷いた。
「……じゃあ、無理です」
そして、彼はこの世界へ来て初めて、他人へ向かって、深く頭を下げた。
「……ご希望に添えず、すみません」
下げた頭を、彼はしばらく上げなかった。
その右手が、無意識のうちに、自分の左手の薬指を、そっと握りしめていた。
*
エルミニアは、その横顔を見ていた。
(……ワシは、いま、何を安堵しておった?)
(この男は何度、刻を戻して、死を覆してみせた? ドラゴンのときもそうじゃった……)
(いや、違う。シンは死を覆したのではない。あれはただ、刻を戻しただけじゃ)
(死者蘇生とはまるで違うものじゃ)
(そして……)
(シンは死なぬ。――ワシはどこかで何故か…そう思うたてしまったのじゃ。ワシは確かに)
だがその男は、いま謝った。
(戻せぬと)
(壁は在るのじゃ。……確かに壁は)
紫紺の瞳が、揺れた。
(……では)
(シンが死んだとき。どうすればよいのじゃ?)
――そこで彼女は、考えるのをやめた。
朝の陽射しは変わらず庭に降りそそぎ、紅茶はとうに冷めきっていて、シンの背中をエルミニアはただ、じっと見つめていた。
第十八話 了




