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世界がどうであれ、夫婦のイチャイチャが常に優先されます。転生先で口説いた美女は最強の魔女でした。  作者: 1009
第一章「絶界の骸森のめぐりあい」

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第十七話「俺の女になれ」

 絶界の骸森の外縁に、勇者一行が足を踏み入れてから、すでに三日が経っていた。


 三日である。


 業火の魔王ムスペルの前線を三度も押し返し、燃える都市から幾千の民を掬い上げてきた男たちが、たかが森で、まる三日、同じ場所へ戻りつづけていた。


 朝、東を背にして歩き出す。半日ほど下生えを掻き分けて進み、ようやく開けた場所へ出たと思えば、そこには昨日と同じ焚き火の跡と、昨日イグニスが苛立ち紛れに叩き折った太い倒木とが、律儀に彼らを待っている。


「……なあ、ヴァルド」


 その倒木へどっかりと腰を下ろしたイグニスが、実に真剣な顔で口を開いた。


「この森、俺のこと嫌ってんのか?」


「勇者様。森に好悪はございません」


 ヴァルド・オルセンは羅針盤を睨みつけたまま、白と紺の宮廷魔道衣の袖を苛立たしげに払いのけた。彼の手のなかで、精緻な細工を施された針は、いまや方角を指し示すことすら放棄して、ぐるぐると気の抜けた円を描きつづけている。


「魔力濃度が理外の水準にあり、磁場も空間の距離感覚も攪乱されているだけの話です。学院の記録にある通り、そもそもこの森は人が正気で歩ける場所ではありません」


「じゃあ、どうすんだよ」


「……方位を諦め、樹木の傾きと苔の付き方から相対位置を割り出しつつ、術式で仮の座標系を敷きます」


「もう三回やっただろそれ」


「――四回目です!!」


 学院首席の額に、これまで誰も見たことのない太い青筋が浮いた。


 大盾を背負ったまま黙々と薪を割っていたダウグリムが、ちらりと二人を見やって、ため息とも唸りともつかぬ音を漏らす。斥候のフィッチャーに至っては、木の上から一日中この森を観測しつづけた末に、「枝の数が、昨日と違う」という報告を上げてきたきり、押し黙ってしまっていた。


 四大魔王という災害と正面から殴り合ってきた男たちが、木と土と霧に、完膚なきまでに負けている。


 二日目の晩には、しびれを切らしたイグニスが「面倒くせえ、燃やして道を作る」と言い出して、聖剣を担いだまま樹海へ向かおうとした。それを羽交い締めにして止めたのはダウグリムであり、押さえながら彼が漏らした「この森を焼こうとした人間は、たぶん歴史上おりませんぞ」という一言は、以後この一行のあいだで、ちょっとした戒めの文句として使われることになる。


「あーくそ、腹減った」


 イグニスが草の上へ大の字に倒れ込んだ、ちょうどそのときだった。


  *


 乳白色の霧が、まるで観音開きの扉のように、音もなく左右へ割れていった。


 全員が、反射的に得物へ手を伸ばした。


 だが霧の向こうから現れたのは、魔獣でも、亡霊でも、まして魔女でもなかった。


 ロマンスグレーの髪をきっちりと撫でつけ、手入れの行き届いた髭をたくわえ、仕立ての良い黒のタキシードを一分の隙もなく着こなした老紳士が、下生えの上を絨毯でも踏むような足取りで歩いてくる。


 彼は一行の前で足を止めると、腰から上をすっと折り、その角度のまま静止した。


「――ようこそ、絶界の骸森へ。当家の家令、セバスチャンと申します」


 誰も、声を出せなかった。


「奥様と旦那様が、お待ちでございます。……三日ほど前から」


「知ってたのかよ!?」


 跳ね起きたイグニスの叫びに、老紳士は柔らかく目を細めた。


「はい。皆様が結界の外縁へ到達された時点で、当家は探知いたしております。排除する方法は、すでに四十七通り算出済みでございました」


「え」


「ご安心くださいませ」


 セバスチャンは白い手袋の手を胸に当て、実に穏やかに微笑んだ。


「本日は、お茶をお出しするだけでございます」


 ――ヴァルド・オルセンが、無意識のうちに一歩、後ずさっていた。


 彼は学院首席として、対峙した相手の力量を測ることにかけては誰にも引けを取らぬ自負がある。だがこの老爺からは、魔力の気配がまるで読めなかった。読めないのに、背筋の産毛だけが正直に逆立っている。


「……勇者様。この者、危険です」


「メシくれるらしいぞ」


「話を聞いてください!!」


  *


 霧を抜けた先で、勇者一行は、揃って言葉を失った。


 外の世界は、下生えと骨と魔獣の唸りに満ちた原生林である。ところが虹色の膜を一枚くぐった内側には、朝露を含んだ芝が青々と広がり、白亜の柱を備えた大邸宅が悠然と建ち、その手前では水面が鏡のように空を映していた。庭の奥からは湯の匂いすら漂ってきて、どこかで小鳥が鳴いている。


 そして、寸分の狂いもなく整列した、十六体の美しい従者たち。


 白いクロスを敷いたテーブルには、三段の菓子皿と、湯気を立てる紅茶が、すでに人数分だけ用意されていた。


「……なんだこれ」


 イグニスが呆然と呟いたところへ、母屋の扉が開いた。


 現れたのは、エプロンをつけた若い男だった。手には焼き立てのスコーンを載せた盆を提げていて、その顔には緊張も警戒も、まして敵意のかけらすら浮かんでいない。


「あ、いらっしゃいませー」


 彼は盆をテーブルへ置くと、勇者一行を見て、ぱっと顔を輝かせた。


「勇者さんですか! うわ、本物だ! すごいなあ、僕、初めて見ましたよ」


 その歓迎ぶりに、嘘や皮肉の影は一片も混じっていなかった。


 ――ヴァルド・オルセンだけが、その男を、冷たく一瞥した。


 彼は指先を軽く動かし、学院で叩き込まれた鑑定の術式を、無造作にその若者へ滑らせる。相手の魔力量、系統、保有スキル、およそすべてが数値として返ってくるはずの術式であった。


 ーーが、何も返ってこなかった。


 空白である。石ころを鑑定したときですら、石ころという答えは返ってくるというのに。


 その意味を、ヴァルドは正しく解釈しなかった。いや、正しく解釈するには、彼の世界はあまりに整いすぎていた。


(……何も出ない、と言うことは、つまり…こいつは何も持っていない……ということだ)


 彼の口元が、ゆっくりと歪んだ。

「……しかし、ただの人間にしてはいささか…」


 合点がいったとばかりに、彼はひとり満足げに頷いてみせる。


「なるほど、そういうことでしたか。魔女の気まぐれで飼われている、玩具というわけだ」


 声は抑えていない。むしろ、届くように放たれていた。


「魔力もなく、能力も普通かそれ以下。世界の趨勢に何ひとつ関与できぬ者が、伝説の魔女の傍らで菓子を焼いている。……ふん、まあ、身の丈に合った収まり方ではあるな」


 メイドたちの何人かが、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。


 シンは、盆を置いた手をそのままに、ヴァルドをまっすぐ見て、それから――にっこりと笑った。


「はい、そうですよ」


「僕は弱いですよー。けど、それがなにか問題でも?」


 あまりに屈託のない返答に、ヴァルドの眉がぴくりと動いた。


 シンにしてみれば、いま言われたことなど、痛くも痒くもない。前世の彼は三十年、営業で食ってきた男であり、これより遥かに悪意のこもった言葉を、笑顔で受け流してきた経験なら、それこそ数え切れぬほど積んでいる。


 無理をして耐えているのでもなければ、我慢しているのでもなかった。本当に、何とも思っていないのだ。


(あー、若いなあ。二十代の頃はこんな感じで先輩に噛みついてたっけ)


(ああいうのは、突っかかると喜ぶんだよな。放っておけば、そのうち落ち着く)


「――あっ、スコーン、あたたかいうちにどうぞ」


 彼は焼き立てのスコーンを、ごく自然な手つきでヴァルドの皿へ取り分けた。


「クロテッドクリーム、そこにありますから。これ、意外と合うんですよ」


 勧める手つきには、一片の含みもなかった。


 この男が本当に腹を立てるのは、余程のときであって、自分自身がどう扱われるかなど、正直なところ献立の悩みほどの重みも持っていない。営業畑一筋だった男の器は、そういう形で鍛え上がっていた。


  *


 完全に流された、と気づいたとき、ヴァルドの内側で何かが小さく音を立てて折れた。


 この男は、侮辱を理解しなかったのではない。理解したうえで、意に介さなかったのだ。学院を首席で出て、王宮に列し、勇者の一行に選ばれた自分の言葉が、菓子を焼く男の耳の前で、ただの風のように吹き抜けていった。


 だからこそ、彼の態度は、あからさまに悪くなっていった。


「……この茶は、毒見が済んでいるのですかな?」


「僕が淹れましたよ。心配なら、僕が先に飲みましょうか」


 シンはまず自分で一口すすって安全を示してから、あらためてヴァルドへカップを差し出した。その様子を見た睦月が、音もなく歩み寄り、シンの脇にそっと砂糖壺を添える。


 ヴァルドはその白い結晶を一瞥すると、苛立ったように鼻を鳴らした。


「メイド風情が、勝手に手を出すな!」


 威圧するようなヴァルドの言葉。しかし睦月は、眉ひとつ動かさずにそれを無視すると、そのままシンのほうを向いた。


「――旦那様、お代わりはいかがでしょう」

 浴びせられた怒声を完璧にスルーし、何事もなかったかのように給仕を続ける。


 そのあまりに平然とした態度に、毒気を抜かれたヴァルドは、怒りと恥ずかしさでみるみる顔を赤くした。


「お前のような何の取り柄もない者には、今のようなペットの立場お似合いだ。世界の危機など、一生関係のない話でしょうからね」


(……若いなぁ。きっと、自分をエリートだと思い込んでいるんだろうな)


(そういう態度だと、人が離れていっちゃうよ。損だよ、それ)


「いやあ」


 シンは、実に晴れやかに笑った。


「この方の冗談は、なかなかキツい物言いですねー」


 そして彼は、砂糖壺を持ち上げて、なんの含みもない顔で首をかしげた。


「あ、砂糖おかわりします? これ、うちの商会で売ってるんですよ。真っ白でしょう。自慢の品なんです」


 ヴァルドは、言葉を返せなかった。


 ――ずっと、居心地悪そうに肉を頬張っていたイグニスが、そこで低く唸った。


「……ヴァルド。やめとけ」


「勇者様。相手はただの――」


「うるせえ」


 赤髪の少年は、骨をがりりと噛み砕きながら、じろりと魔法使いを睨みつけた。


「飯を食わせてもらって、世話になってんだ。不遜な物言いは止めろ」


  *


 その声を断ち切るように、母屋の奥の扉が、静かに開いた。


 現れた女に、勇者一行の四人は、揃って呼吸を忘れた。


 とんがり帽子も、体の線を覆い隠すぶかぶかの魔女服も、そこにはなかった。ゆったりとした家着の裾を無造作に引きずり、髪もろくに整えぬまま、彼女はただの二千年生きた女として、テラスへ降りてくる。


 宵闇を溶かし込んだような滑らかな褐色の肌に、背の中ほどまで流れ落ちる銀の髪が匂い立つように映えていた。切れ長の双眸は深い紫紺の宝石のごとく澄んで底光りし、銀髪のあいだからは、笹の葉のように長く尖った耳がのぞいている。


「……客か。珍しいのう」


 誰も、まともに息ができなかった。


 ダウグリムは大盾へ伸ばしかけた手を宙で止めたまま固まり、フィッチャーは短剣の柄をきつく握り込んで、無意識のうちに退路の位置を確かめていた。二人の背筋を這い上がってきたのは色恋の類ではなく、獣が己より遥かに上位の捕食者と鉢合わせたときの、あの純然たる警鐘である。


 美しい、と思うより先に、逃げろ、と本能が叫んでいた。


 ヴァルド・オルセンの顔から、先ほどまでの侮蔑の色が、跡形もなく蒸発していった。


 代わりにそこへ滲み出したのは、崇拝であり、そして隠しようもない欲であった。彼は椅子を鳴らして立ち上がると、深々と頭を垂れる。


「――ご尊顔を拝し奉り、光栄の極みにございます。アーセナリー魔法学院首席、宮廷魔法使いヴァルド・オルセンと申します」


 この男の底の浅さが、そこで残らず露わになった。


 イグニスは、ぽかんと口を開けたまま、彼女を見ている。


 エルミニアは椅子へ腰を下ろし、来訪の理由を淡々と聞き取った。そして「レーゼス」という名を聞かされたとき、彼女は紅茶のカップを持ち上げかけた手を、ほんのわずかに止めた。


「レーゼス、か」


 紫紺の瞳が、庭の向こうの何もない空を、しばらく彷徨った。


「……名は覚えておる。顔は、思い出せぬがな」


 その一言に、イグニスの眉が跳ね上がる。


「じゃが――火の扱いが、下手な子供がおった」


 彼女はカップの水面を見つめたまま、まるで昨日の天気でも思い返すように続けた。


「炎の適性を持ちながら、火を怖がっておってな。杖を握ると手が震えて、まともに撃てんかった。あれには往生したものじゃ。……そやつのことか?」


 名前も、顔も、二千年の底に沈んで消えていた。


 ただ、火を怖がる癖だけが、彼女の中に残っている。


 イグニスの目が、変わった。


「……そうだ」


 彼は、掠れた声を絞り出した。


「その爺さんで間違いない!」


  *


 イグニス・バロウは、立ち上がった。


 まっすぐで、豪快で、そして何ひとつ考えていなかった。


「――俺のパーティに入れ」


「爺さんの穴を埋めてられるのは、あんたにしかできねえ」


 そこまでは、まだよかった。


 だが彼は、その勢いのまま、実に晴れやかな顔で続けてしまった。


「しかしあんた、すげえ美人だな」


「気に入った! 俺に気に入られるなんて、よっぽどのことだ!」


「――ついでに、俺の女になれ」


 彼に悪意など、ひとかけらもなかった。ただ思ったことを、そのまま口にしただけである。


 皮肉なことに、それはこの屋敷の主人と、寸分たがわず同じ流儀であった。


 エルミニアは、固まった。


 二千年、力を求められ、恐れられ、利用され、そのすべてを鼻で笑って生きてきた女である。だが“女として”求められたのは、生涯でこれが二度目だった。


 一度目は、半年前。この庭で、目の前の男から。


 彼女は、どうしていいのか分からなくなって――思わず、シンのほうを見てしまった。


  *


 庭の空気が、変わった。


 ティーポットを持ったまま、シンが一歩、前へ出た。


 芝を踏むその音だけが、やけに大きく響いた。


 エプロン姿のまま、菓子を焼いていた男が、彼女の前へ立ち塞がる。


 そして、彼の一人称が、変わった。


「お前、なに言ってんだ?」


 半年のあいだ、この庭で誰も聞いたことのない声だった。


「エルミニアさんは、将来、俺と結婚する人だぞ」


「てめえみたいな三流勇者の出る幕じゃねえんだよ」


「勇者は、黙って魔王の討伐だけしてりゃいいんだよ!」


 ――半年前、この家の一室で、彼は眠る彼女の寝顔を見下ろしながら、たった一人で決めたことがあった。


 『他のどんな男にも、絶対に渡さない』と。


 その独白が、半年の時を越えて、いま初めて、他人へ向かって放たれていた。


 エルミニアは、その一文字の変化を、聞き逃さなかった。


(……シンのやつ今「俺」と言うたのか?)

(こやつがそう言うときは……)


 朝の廊下で、また手を握られた食卓で、この男が本気になった瞬間だけ、その一人称は必ず入れ替わってきた。エルミニアの心臓が、トクン…と跳ね上がる。


 イグニスの顔が、ゆっくりと笑った。

「――へえ」


 彼は聖剣の柄へ手をかけると、白い歯を剥き出しにした。

「この俺とやろうってのか、お前」


「いい度胸じゃねぇか!」


 シンは、ティーポットを睦月へ手渡すと、腕を組んで、仁王立ちになった。

「今ならまだ許してやる……」


「仲間連れて、さっさと俺の視界から消えろ。――ド三流ども」


 第十七話 了

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