第十六話「勇者イグニス・バロウ」
境界都市ガイムルグから北へ二日ほど、痩せた丘陵のあいだを縫うように走るこの街道は、近ごろ商人たちのあいだで「焼け道」と呼ばれるようになっていた。南の山脈で業火の魔王が身じろぎをするたび、その足元から押し出された魔獣どもが行き場を失って北へ流れ着き、人の通う道にまで平気で牙を伸ばしてくるからである。
その日、十二台の荷馬車を連ねた商隊は、日暮れ前に次の宿場へ入るつもりで、いつもよりわずかに足を速めていた。
護衛を請け負っていたのはガイムルグでは名の通った傭兵団で、隊長のガレスという男は、腕にも人望にも不足のない古参だった。斥候を前後へ散らし、荷馬車の間隔を詰めさせ、風向きまで確かめながら進ませていたのだから、手抜かりがあったわけではない。
ただ、数が違った。
最初に丘の稜線へ現れた影を、誰かが「三つか、四つだ」と数えた。その声が終わる前に影は十を超え、十を数え終えるより早く、稜線そのものが黒く波打ちはじめていた。
灼狼。喉の奥に炭火の色を溜め込んだ、狼の型の魔獣である。単体であれば手練れの傭兵が三人がかりで仕留められる程度の相手にすぎないが、その群れが四十、五十と連なって斜面を滑り落ちてくる光景を前にして、ガレスの背筋を舐めたのは、久しく忘れていた種類の冷たさだった。
「盾を寄せろ! 荷馬車を捨てるな、壁にするんだ!!」
怒号に応じて傭兵たちが車列の風下へ楯を並べていったが、灼狼の群れは訓練された猟犬のように左右へ割れると、防御の薄い側面へするりと回り込んできた。
最初の炎が、幌を舐めた。
乾ききった麻布は瞬く間に燃え上がり、荷を満載した馬車が松明のごとく立ち上がって、繋がれた馬が狂ったように暴れはじめる。轅が折れ、車輪が跳ね、逃げ場を失った馬が味方の隊列を踏み荒らしていくうちに、整えたばかりの陣形は内側から音を立てて崩れていった。
それでもガレスは三頭を斬った。四頭目の顎を盾で受け止めながら、五頭目の牙が右の脇腹へ深々と沈み込んでいくのを、彼はどこか遠い他人事のような心地で感じ取っていた。
「――隊長ッ!」
部下の誰かが叫んだようだったが、その声もすぐに、続く悲鳴の波へ呑まれて消えてしまう。
膝をついたガレスの視界の端で、燃える荷馬車の陰から、ひとりの女が幼い娘を抱えて転がり出てくるのが見えた。荷を積みすぎた行商人の一家で、逃げ足だけがどうしても遅れていた家族である。夫は最初の突撃で消えており、女は片方の靴を失ったまま、それでも娘を抱え直して走ろうとしていた。
灼狼が、そちらへ首をめぐらせた。
喉の奥の炭火が、ふうっと明るさを増していく。
立て、と自分自身に命じたはずのガレスの脚は、もはや一寸たりとも動かなかった。剣を投げつけようとした腕にも力が入らず、開いた口から零れたのは、掠れた息の音がひとつきりである。
女は逃げるのをやめると、地面に膝をつき、娘の頭を胸へ抱え込むようにして背中を丸めた。
そして目を閉じたが、この期に及んで彼女にできることは、もはやそれしか残されていなかった。
*
だが、待ち受けた熱は、いつまで経っても訪れなかった。
代わりに頭上の空気が引き裂かれるような音が走り、おそるおそる顔を上げた女の目に映ったのは、丘の上から真っ逆さまに落ちてくる、一本の白い光の柱だった。
光は灼狼の群れのただ中で炸裂し、地面ごと十数頭を宙へ吹き飛ばして、あたり一帯を灼熱の坩堝へと変えてしまう。
「――『焔柱』。第二波まで、間隔は五秒。前衛、間合いを空けろ」
丘の上には、白と紺の宮廷魔道衣を一分の隙もなく着込んだ、細身の男が立っていた。撫でつけた髪も、杖を握る指先の角度も、まるで書物の挿絵から抜け出してきたかのように整っている。アーセナリー魔法学院首席、宮廷魔法使いヴァルド・オルセン――勇者一行にただ一人残された、術式の使い手である。
彼は倒れ伏す傭兵たちを一瞥したものの、その視線には憐れみも憤りも滲まなかった。魔獣の襲撃で人が死ぬのは、この厳しい世界の必然であり、そこへ自分たちが間に合ったのは、選ばれた者が果たすべき義務を果たしたにすぎない――ヴァルド・オルセンという男の世界は、そういう清潔な理屈だけで綺麗に舗装されている。
その号令に、地を蹴る音がふたつ応えた。
「――ォオオオッ!!」
崩れかけた車列の前へ、鎧を鳴らして躍り出た大男がいる。重騎士ダウグリムは、身の丈ほどもある大盾を大地へ叩きつけると、その一枚きりで灼狼の突進を正面から受け止めてみせた。牙が鋼を削り、爪が火花を散らし、それでも彼の足は指一本ぶんも後ろへ下がらない。
「傭兵ども、下がれ! ここは通さん!」
同じ瞬間、崩れた荷馬車の屋根を蹴った影が、群れの背後へ音もなく舞い降りていた。斥候フィッチャーの双短剣は、灼狼の喉笛だけを正確に選んで滑り込み、獣が炎を吐くために息を吸うその一拍を、ことごとく先回りして断ち切っていく。
そして――炎の壁の向こうから、悠々と歩いてくる者がいた。
燃え盛る荷馬車の火も、灼狼の吐いた業火も、その少年は避けようとすらしなかった。むしろ両腕を広げ、顔ごと炎の中へ突っ込んでいく。
赤い髪が熱風に踊り、剥き出しの上半身に刻まれた無数の傷跡が、炎の照り返しでぬらりと光った。
『焔熱喰らい(エネルギー・イーター)』。
浴びた熱のことごとくを己の血肉へ変える、その特性のままに、少年の肩の傷が音もなく塞がっていく。踏み出す一歩ごとに足元の土がめり込み、握った拳が軋み、彼の内側で膨れ上がっていく力は、もはや人の器を軽々と超えつつあった。
「――ははっ、あちィ! もっと来い!!」
少年は笑っていた。腹の底から、実に楽しそうに。
灼狼たちが本能で後ずさりかけた、まさにその隙を、彼は見逃さなかった。
『烈火限界突破』。
溜め込んだ熱量のすべてが推進力へ転じた瞬間、少年の姿は視界から掻き消え、通り抜けた軌跡にだけ陽炎の帯が残された。一頭目が両断されたと理解する間もなく二頭目が宙を舞い、三頭目が地に落ちる頃には、彼はもう群れの反対側へ抜けている。
人が数を数えるより速く、群れの中央が抉り取られていった。
そこへ、大地が唸った。
丘の裂け目を押し広げるようにして這い出してきたのは、灼狼などとは比べ物にならぬ巨躯である。溶岩めいた亀裂を全身に走らせ、頭部から二本の角を突き上げたその魔獣を、焔角獣と呼ぶ。群れを率いていた親玉が、ようやく重い腰を上げたのだ。
「勇者様、来ます!」
「ダウグリム、正面は捨てろ! 受けきれる質量ではない!」
フィッチャーの警告とヴァルドの指示が同時に飛んだが、赤髪の少年はどちらにも従わなかった。
彼はまっすぐ、その巨大な顎へ向かって走っていった。
焔角獣が咆哮し、口腔の奥から白熱した奔流を吐き出す。街道の土を硝子へ変えるほどの熱量が、少年を真正面から呑み込んだ。
誰もが息を止めた、その業火の中心で。
「――ごちそうさん」
背に負っていた聖剣が、白い光を放って形を変えていく。刀身は分厚く、肉厚に、そして無骨なまでに大きく――聖剣『バルムンク・フレア』は、いまや両手持ちの巨大な戦斧としてその手に収まっていた。喰らった熱の全量を刃へ流し込まれ、斧身は溶鉱炉の底のように白く灼けている。
少年は、その白熱の塊を、真上へ振りかぶった。
「――『星火融解破』ッ!!」
振り下ろされた一撃は、焔角獣の角を、頭蓋を、その胴の芯までを、まるで熱した匙が獣脂を裂くように、なんの抵抗もなく通り抜けていった。
巨躯が真っ二つに割れて左右へ倒れ、地響きが街道を揺らし、残った灼狼たちが悲鳴じみた声を上げて丘の向こうへ逃げ散っていく。
静寂が戻ったあとに残されたのは、燃え尽きかけた荷馬車と、生き延びた人間たちの、荒い息の音だけだった。
*
助かった、と誰かが呟いた。
その一言が引き金になったかのように、生き残った傭兵も、商人も、荷を失った行商人たちも、次々とその場へ膝をついていった。地面へ額をこすりつけて礼を述べる者があり、声にならぬ嗚咽を漏らす者があり、なかには手を合わせて拝みはじめる者まである。
誰かが「勇者様だ」と叫び、その声が波紋のように広がっていくうちに、泣き声はいっそう大きくなっていった。ヴァルドは差し出された感謝の手をやんわりと押し返しながら傷病者の選別を始め、ダウグリムは崩れた荷馬車を片手で持ち上げて、下敷きになった男を引きずり出している。
脇腹を押さえたガレスは、駆け寄った斥候の手当てを受けながら、掠れた声を絞り出した。
「……その、赤い髪。まさか、勇者さま、で……」
「おう。イグニスだ。イグニス・バロウ」
少年は聖剣を肩へ担ぎ直すと、実にあっけらかんと名乗ってみせた。
娘を抱いたままの女が、よろめきながら歩み寄ってきて、その手を両手で握りしめる。煤にまみれ、靴を片方失い、それでも彼女はイグニスの手を離そうとしなかった。
「ありがとう……ありがとうございます、勇者さま……この子が、この子が助かりました……っ」
「おう、よかったな。……おい、そこの。この人ら、次の宿場まで乗せてってやれ」
イグニスは女の手を握り返しながら、そう言った。
――そして、その顔は、まるで笑っていなかった。
彼は灰の混じった空を見上げ、実に軽い調子で、ひとつ舌打ちをした。
「……遅えよ」
その一言に、傭兵たちが顔を上げる。感謝の声が、ぴたりと止んだ。
「レーゼスの爺さんがいた頃なら、この半分で終わってた」
顔を伏せたヴァルドの喉が、小さく上下した。前衛の頭上を越えて群れの後背を裂き、退路を焼き、そのうえで味方の呼吸まで数えて次の一撃を置いていく――そういう芸当を、あの老爺は詠唱のひとつも急がずにやってのけた。同じ真似を、学院首席の術式では、どうしても五秒だけ届かない。
誰も死ななかったわけではない。だが、誰一人として彼らを責める者はいない。
それでもこの一行は、自分たちが確かに欠けているのだということを、骨の髄で理解していた。
大盾を背へ戻しながら、ダウグリムが低く唸る。
「爺さんがいれば、丘の上から先に群れを裂けた。俺が正面で足を止める必要も、勇者様が炎を喰らう必要もなかった」
「今回は、間に合いました」
フィッチャーが短剣の血を拭いながら、静かに続けた。
「……次は、間に合わんかもしれん」
ダウグリムの声には、脅しの響きなど微塵もない。ただ、算術の答えを読み上げるような、乾いた確かさだけがあった。
遅れた分は、いつか必ず、どこかの誰かの命になる。
この一行の全員が、それを知っている。
イグニスは、握られたままの女の手をそっとほどくと、その頭を一度だけ乱暴に撫でて、荷馬車のほうへ背を向けた。
「だから、行くんだろがぁ!」
*
その夜、一行は焼け残った街道の脇で火を焚いた。
脂の落ちる音と、薪の爆ぜる音だけが、しばらく続いた。
やがてイグニスが、傭兵から分けてもらった酒杯を傾けながら、誰に言うともなく口を開いた。何十度となく繰り返してきた話を、彼はまた最初から語りはじめる。
「爺さんな。ガキの頃は、火の扱いが下手くそだったんだとよ」
「……またその話ですか」
「聞け。炎の適性を持って生まれたくせに、火が怖くて仕方なかったんだと。杖を握ると手が震えて、まともに撃てなかったってさ」
フィッチャーが呆れたように肩をすくめたが、イグニスは構わずに続けた。
「そんで、師匠んとこで魔法習ってたわけだ。そこへある日、師匠の――そのまた…師匠が、ひょっこり訪ねて来やがったんだと」
薪がひとつ、赤い火の粉を散らして崩れる。
「その人が言ったんだ。……いや、言ったのは師匠のほうか。『師匠、私の生徒たちに、少し魔法を教えてやってはくれんかね』ってな」
イグニスは酒杯を置くと、聞き覚えた口調をわざとらしく真似てみせた。
「そしたら、その大師匠がこう答えたんだと」
「――『ふむ。……気晴らしには、ちょうどよいな。どれ、見てやるから、お前の生徒を集めるのじゃ』」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「たった、それだけだ」
イグニスは笑った。腹の底から、実に嬉しそうに。
「気晴らしだとよ。気晴らしで、爺さんの人生、全部ひっくり返っちまったんだと」
その日を境に、震えていた手はぴたりと止まり、火を恐れていた子供は炎の魔法の名手になり、やがて世界に四人しかいない勇者の一人と肩を並べるまでになった。
「爺さん、死ぬまでその人のこと『大師匠』って呼んでたぜ。……たった一度きりだってのにな」
彼は空になった杯を火の中へ放り込むと、天を仰いだ。
「毎晩、聞かされたよ。世界で一番すげえ大魔女だってさ。……耳が痛くなるくらい、な」
火が、ひとつ大きく爆ぜた。
イグニスは立ち上がると、傍らに立てかけてあった聖剣を、無造作に肩へ担ぎ上げた。
「――絶界の骸森へ行く」
ヴァルド・オルセンが、初めて、はっきりと眉をひそめた。
「勇者様。あの森は、人の立ち入れる場所ではありません。濃すぎる魔力が方位も磁場も狂わせ、いかなる熟練の冒険者であろうと二度と生きて出られぬと記録にあります」
「知ってる」
「そのうえ、かの魔女が実在するという確証すらないのです。二千年以上を生きた魔女など、いまや御伽噺の域です。仮に生きていたとして、応じる道理がどこにありますか?」
ヴァルドの言葉は、どれも正しかった。彼は魔法学院の首席であり、常に正しいことを、正しい手順で述べる男である。
だからこそ、イグニスは、その正しさを一顧だにしなかった。
「うるせぇ、行って確かめりゃいいだけだろ!」
彼は焚き火を踏み消すと、赤い髪を掻き上げて、南の空を睨みつけた。その先には、地図の上ではただの白い空白として描かれた、あの森が横たわっている。
「考えても、爺さんは戻ってこねえ」
「なら、動くまでよ!!」
――その大魔女を、仲間にする。
彼は、そう言い切った。
*
絶界の骸森の空には、その夜も、虹色の膜が音もなく揺れていた。
千年をかけて編み上げられたその結界の内側では、外の理も、魔王も、勇者も、およそいっさいの喧騒が届くことなく遮られている。
そして庭先では、エプロン姿の男が、テラスの椅子へ深く沈み込んだ魔女に向かって、実に晴れやかな声で報告をしていた。
「エルミニアさーん。今日の甘味は、ショートケーキですよー」
「な、なんじゃそれは! 早う持ってこんかい!」
世界は、こちらへ向かっている。
二人は、そのことをまだ何も知らない。
第十六話 了




