第二十一話「初夜」
喧噪の去った屋敷は、しんと静まりかえっていた。
勇者の一行は帰り、メイドたちも下がり、庭の竜たちも寝静まって、あれほど賑やかだった一日の名残は、もうどこにも残っていない。灯りを落とした寝室には、洗い立ての寝具の匂いと、窓越しに揺れる結界の淡い光だけが満ちていた。
その広い寝台の端に、花嫁衣裳を解いた女が、背筋をぴんと伸ばして腰かけていた。薄い夜着に着替えさせられた肩が、ときおり思い出したように小さく跳ねている。
「……な、なんじゃ。ワシは、平気じゃぞ」
問われてもいないのに、彼女はそう言い張った。
「震えてますよ」
「震えておらんわーーー!!」
組んだ膝の上で、褐色の指先が小刻みに揺れているのを、シンは静かに見ていた。世界で最も強い魔女が、初めての夜を前にして、あからさまに怯えている。魔獣の群れにも、災いを振りまく者にも、眉ひとつ動かさなかった女が、いまは、指の先まで強張らせて縮こまっていた。長く生きてはきたが、こうした場面だけは、彼女にとって、まったくの未知だったのだ。
もっとも、隣に腰を下ろしたシンのほうも、けっして余裕綽々というわけではなかった。
半年である。
半年ものあいだ、この人だけを想いつづけてきた。手のひらにはうっすらと汗がにじみ、心臓は、自分でも呆れるほど速く打っている。二十歳の身体に宿った五十四年ぶんの分別も、こういうときには、ほとんど役に立ってくれなかった。
「……エルミニアさんも、僕も緊張してますね」
「な……っ、お主も、か」
「はい。ばればれですか」
「……ふん。……まあ、ようは、おあいこじゃな」
少しだけ、彼女の肩の力が抜けた。
*
シンは、彼女の左手を、そっと両手で包み込んだ。
その薬指に嵌まった銀の指輪が、結界の光を受けて、静かに輝いている。半年前、彼が真顔で嘘をついて嵌めさせた、あの指輪だった。
彼は、その輝きを見つめているうちに、胸の奥がじんわりと熱くなって――そして、この男は言わなくてよいことまで、つい口に出してしまうのだった。
「そういえば、その指輪。……機能的には、左手の薬指じゃなくても、ちゃんと効くんですよねー」
言ってしまってから、しまった、という顔をしても、もう遅かった。
「…………どういうことじゃ?」
エルミニアの瞳が、すうっと据わった。
*
彼女は、勢いよく身を起こした。
「――嘘、じゃったのか!?」
「あの、嘘というかー」
「ワシは、半年じゃぞ! 律儀にこの指に着けておったのじゃ!」
彼女は、握った小さな拳で、彼の胸をぽかぽかと叩いた。痛みなど、まるでない。ただ、必死なだけの、可愛らしい抗議だった。
「お主を、信じておったのじゃぞ! 効かぬと困るからと、右手に移そうとするたび、いや左手じゃと言うたのは、お主ではないか!」
「だから、ずっと、左手の薬指に着けておったのに……っ!」
叩きながら、彼女の頬は、みるみる赤く染まっていった。怒っているのか、恥ずかしいのか、彼女自身にも、もうよく分からなくなっていた。ただ、律儀に守りつづけた自分が、なんだか無性に面映ゆくて、その照れ隠しに、拳を動かしつづけているだけだった。
シンは、その拳を避けもせず、ただ、困ったように苦笑いを浮かべていた。
*
「……エルミニアさん」
彼の声が、ふいに、静かになった。
「なぜ左手の薬指でなければならないのかは……嘘をついた…というのとは、少し違うんです」
ぽかぽかと動いていた拳が、止まった。
「僕の前世の……地球の価値観なんですけどね」
彼は包んだ左手を、大切そうに見つめながら、ゆっくりと言葉を継いだ。
「指輪の『◯』には、始まりも終わりもないでしょう。だから、『永遠に途切れることのない愛』の象徴なんです」
「そして、左手の薬指は――心臓に一番近い、太い血管が繋がっている、特別な場所だと、信じられていました」
エルミニアの手から、力が抜けていった。
「前世の僕は、仕事ばかりの男でしてね。先に逝ってしまった前の妻とは、離婚寸前までいったこともあったんです。ずいぶんと寂しい思いをさせていました」
「……でもね」
彼はそこで、ほんの少し目を伏せた。
「彼女は病で亡くなる、最後の瞬間まで。その左手の薬指の指輪を、絶対に外さなかったんです」
「不器用な僕たちの、それがたったひとつの繋がりの証明でした」
寝室に、沈黙が落ちた。
「だから、今度こそと思ったんです」
シンは顔を上げて、彼女をまっすぐに見た。
「僕を受け入れてくれた、あなたとは…最初からその特別な場所で、永遠を誓い合いたかった」
「機能の意味じゃなく――僕の気持ちとして」
「…だから、左手の薬指じゃなきゃ、ダメだったんです」
――エルミニアの表情が、崩れた。
彼女は、半年ものあいだ、この指輪を、他愛もない笑い話だと思っていた。あの男のまた始まった悪ふざけだと。そう思っても…不思議と黙って着けつづけていた。
それが、誓いだったのだ。
しかも婚姻魔法は、もう済んでいる。二人の魂は、とうに結ばれてしまった。いまさら取り消すことも、なかったことにすることもできはしない。
「……ワシは……」
声が、震えた。
「ワシは…笑い話じゃと思うておったのじゃ……っ!」
大粒の涙が、褐色の頬を、次から次へと伝い落ちていった。
力ずくで抗えぬものなど、この世に存在しないと思って生きてきた。降りかかる火の粉は焼き払い、立ちはだかる壁は砕き、それで大抵のことは片がついた。だが、いま胸の奥から込み上げてくるこの熱だけは、術式でも、魔力でも、どうにも抑えようがなかった。
そして彼女は、ふいに、あのドレスのことを思い出した。術式には一片の関わりもない、ただの布きれ。無駄だと切って捨てた、あの純白の一着。
――機能では要らぬものを、この男は必ず用意する。
指輪もドレスも根は同じだった。前世で伝えそびれた男の遅すぎた、けれど精一杯の償いだったのだ。
*
涙を拭うことも忘れて、彼女は訊いてしまった。
訊いてはならぬと、頭のどこかで分かっていながら、それでも、訊かずにはいられなかった。
「……のう、シン」
「その女に……会いたいか」
「……いえ。妻は、もう亡くなりましたから」
彼の答えに、迷いはなかった。
「あのとき、ちゃんとお別れは済ませてきたつもりです」
嘘のつけぬ男の、まっすぐな返事だった。
「……ひょっとすれば」
彼女は、上目遣いに、おそるおそる言った。
「死ねば……また、会えるかもしれんぞ?」
「どうでしょう。……でも、僕は死んで、妻じゃなくて、エルミニアさんに、こうして会えましたよ」
その一言で彼女は、髪の生え際まで、かあっと赤くなった。
そして赤くなったまま、彼女は本音を吐き出してしまう。
「――やっぱり…いやじゃ」
握った彼の服を、彼女は、きゅっと引き寄せた。
「ワシはお主を、死なせぬ。誰にも渡さぬ。……前の人生の妻であったものにも、じゃ」
「ワシは、そういう女じゃ。……欲張りで我儘な、困ったヤツなのじゃ」
シンは、笑った。
「わかってます」
彼は、彼女の頭を、そっと撫でた。
「……前の妻は、いまも僕の中にいます。もう僕の一部になってるんです。それでもあなたは、そんな僕を好きになってくれた」
「たぶんエルミニアさんは、僕ごと――妻の思い出ごと、まるっと引き受けてくれたんだと思います。だから、僕からしたら、感謝しかないんですよ」
そして彼は、遠くを見るような目で、静かに続けた。
「僕、あの日……車に轢かれたとき、思ったんです」
「――これで、あいつのところへ、行けるのかな、って」
窓の外で結界の光が、ゆらりと揺れた。
「でも結果は、この通り。こうしてあなたと、向き合ってる」
「…………」
「――だから、それでいいんです」
彼の声には、もう一片の迷いもなかった。
「僕は前世で伝えないまま、大切な人を一人失いました。……今度は、決して失いません」
「あなたと生きます。この命の続くかぎり、ずっと」
その言葉の重さを、彼女は痛いほど分かっていた。
この男が「永遠に」と言わず、「命の続くかぎり」と言ったこと。人の生には終わりがあり、そのことを、彼が決して誤魔化そうとしないこと。だからこそ、この誓いは、口先だけの甘い睦言などではなく、限りある己の一生を、まるごと差し出すという、覚悟そのものだった。
――ならば、その限りある命を、ワシがどこまでも引き延ばしてやろう。
彼女は、濡れた瞳の奥で、密かにそう誓った。この男が老いれば刻を戻し、傷つけば癒し、何があろうと、隣で生かしつづけてやる。それが我儘だと言うのなら、喜んで我儘であろうと、彼女は思った。
*
彼女は、彼の胸に、こつん、と額を押し当てた。
しばらく、そうしていた。そして、くぐもった声で、ぽつりと言った。
「……のう、シン」
「なんですか」
「まだ、ワシに……『さん』を、付けるのか?」
「…………」
シンの動きが、止まった。
「……あ」
エルミニアに出会ってから、彼はただの一度も、それに気づいていなかった。出会った日から律儀に「エルミニアさん」と呼びつづけてきて、そのことを、おかしいとすら思っていなかったのだ。
彼はぎこちなく、口を開いた。
その手が、うっすらと汗ばんでいた。妻となった女の名を、夫として呼ぶ。ただそれだけのことが、いまの彼には、求婚のときよりも、よほど勇気の要ることだった。
「――エルミニアさん」
「……」
「……いや」
彼は一度、唇を結んでから言い直した。
「――エルミニア」
その名を呼び捨てにした者は、これまで、ただの一人もいなかった。誰もが「様」を付け「殿」を付け、遠くから呼んだ。それをシンは、ごく当たり前のように、ひとりの妻の名として口にした。
彼女は、顔を上げられなかった。
「…………うむ」
消え入りそうな、けれど、たしかな返事だった。
やがて………
寝室の灯りが、静かに落ちた。
*
その晩、屋敷の防音は、まるで役に立たなかった。
夜も更けたころ、廊下に控えていた神無月が、寝室の扉から遠く離れた場所で、深々と頭を垂れた。
「――申し訳ございません。この神無月が施した防音の術式では……どうやら、設計上の想定を、超えておるようでございます」
それから、丸三晩。
十六体のメイドたちは、生まれて初めて、際限のない耐久を強いられることとなった。庭では、セバスチャンが夜空を見上げながら、ひとり静かに紅茶を啜っている。
「……よい夜でございますな」
十体の竜たちは、そそくさと森の奥へ避難していった。
そして、シンがこの世界へ来た日から、ただの一度も出番のなかった、ある力が――このとき初めて、その本領を発揮したのである。
あの自ら望んだ力…『絶倫』である。
*
三晩が明けた、朝。
結界の膜を透かして、柔らかな朝日が、寝室いっぱいに降りそそいでいた。
「……もう勘弁して…ほしいのじゃ。身体が……壊れてしまうのじゃ……」
寝具に沈み込んだエルミニアが、弱々しい声で訴えた。
「はい、エリクサーどうぞ。これ飲めば、疲労も一発で回復しますから、まだまだ――」
「そういう…問題では、ないのじゃーーー……!」
力尽きたように、彼女は、ぱたりと枕へ突っ伏した。
それでも、その口元は、ほんのりと綻んでいた。
「――エルミニア、愛してる」
彼が、そう囁くと。
この長い物語のなかで、初めて、彼女のほうから、返事が来た。
「……ワシも、じゃ」
照れ隠しも、憎まれ口も、そこにはなかった。
やがて彼女は、枕に頬をつけたまま、ふと…思いついたように尋ねた。
「……のう、シン。こういう行為は……お主のいた地球では、なんと呼んでおったのじゃ?」
男は、実に晴れやかな顔で、前世で読んだ物語の中から、その言葉を引っぱり出してきた。
「結婚したあとなので、まずは『初夜』ですね。……魂まで、ひとつになりましたし」
「――前世の言い方だと、こういうのを」
「『合体』って、言うんですよ!」
「……なんじゃ、その言い方は。締まらんわい」
呆れたように言いながらも、エルミニアは、明るく優しく微笑んだ。
そして、シンはその銀の髪を撫でながら、静かに告げた。
「これからずっと一緒です。山あり谷ありで、いろんなことが起こるでしょうけど……二人で助け合って、この人生を一緒に歩いていこう。エルミニア……」
「――わかったのじゃ♡」
彼女は、この上なく幸せそうに、目を細めた。
「ワシの、愛しの旦那様。……シン♡♡♡」
その呼びかけは、この長い歳月のなかで、彼女が誰かに向けた、いちばん柔らかな声だった。
こうして、絶界の骸森の魔女は、ひとりの男と巡りあいその妻となった。
世界がどうであろうと。
この二人の睦まじさだけは、いつだって何よりも先に、優先されるのである。
第二十一話 了
――第一章「絶界の骸森のめぐりあい」 完
ご愛読ありがとうございました!
この物語はここで一旦、終了致しますm(_ _)m
もし『面白いな』って思ってもらえたら、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援してもらえると励みになります。




