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世界がどうであれ、夫婦のイチャイチャが常に優先されます。転生先で口説いた美女は最強の魔女でした。  作者: 1009
第一章「絶界の骸森のめぐりあい」

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第十四話「巻き戻る時間と、竜のポチ」

 その朝の食卓には、いつもの騒がしさがなかった。


 本来なら席に着くより早く「今日の甘味はなんじゃ」と催促してくるはずのエルミニアが、湯気の立つ味噌汁の前でしょんぼりと肩を落としたまま、匙を持つ気配すら見せずにいる。給仕を務めていた睦月がそっと信へ視線を送り、信は小さく頷いてから、向かいの席の魔女へ声をかけた。


「どうしたんです、エルミニアさん。どこか具合でも悪いですか」

「……いや、体はなんともないのじゃ」


 力なくそう答えたエルミニアは、ためらいがちに、卓の上へ布に包んだものを置いた。開かれた布の中には、細長い硝子の器具類が、無残に割れた姿で横たわっている。


「昨夜の実験でな、ワシの不注意で落としてしもうた。……千二百年、ずっと使ってきた調薬器具じゃ」


 どこにでもありそうな道具に見えて、その硝子は特殊な魔力伝導の細工が施されており、同じ物を作れる職人はとうの昔にこの世を去っていた。代わりが利かないという点において、それはもはや品物ではなく、彼女が積み重ねてきた千二百年の歴史そのものだった。


「もう、直らんのじゃ」


 しょげているのは器具に対してではなく、二度と戻らぬ時間そのものに対してなのだと、信は彼女の横顔を見ていて悟った。そして、ふと思い出す。


「そういえば僕、『限定時間操作』ってのも、神様からもらってましたね」


 布の上の破片へ手を伸ばした信は、そっと硝子に指先を触れさせながら、、頭のなかで一本の巻き戻る糸を思い描いた。割れる前へ傷つく前へ、生まれたばかりの姿へと。


「――巻き戻れ」


 卓に散った細かな欠片が、まるで逆再生の映像のように音もなく舞い戻り、罅が水面の波紋のごとく消えていき、曇っていた硝子が澄んだ輝きを取り戻していく。数秒ののち、そこには製造されたばかりの新品としか思えない調薬器具が、静かに鎮座していた。


「……のじゃ?」


 しばらく瞬きを繰り返していたエルミニアは、おそるおそる器具を取り上げて陽にかざし、魔力伝導の細工が寸分の狂いもなく生きていることを確かめると、そのまま椅子から飛び上がった。


「直っ……直っておる! いや、直ったどころか新品ではないか! シン、お主というやつは、ほんに、ほんに――!」


 器具を胸に抱いてくるくると回りだした魔女を眺めながら、信の胸はじんわりと温かくなった。前世で娘たちに贈り物をした朝の記憶が、なぜか鮮やかに蘇ってくる。壁際に控えていたセバスチャンが「奥様がお喜びで何よりでございます」と静かに一礼し、睦月は冷めかけた味噌汁を、何食わぬ顔で温かいものと取り替えていた。


 そうして頬を緩めていた彼が、実に何気なく漏らした一言が、平穏な朝を根こそぎ引っくり返すことになる。


「これって、生き物に使ったらどうなるんですかね?」


 エルミニアの笑顔が、音を立てて凍りついた。


 器具をそっと卓へ戻した彼女は、しばらく虚空を睨んだまま黙り込み、やがて重い口を開く。


「……シン、よく聞け。この世界には、蘇生の魔法も蘇生の秘薬も存在せんのじゃ。ワシが二千年をかけて探し、弟子の一人などは生涯を捧げて研究した。じゃが結論は同じでな、死者は戻らぬ。死とは、この世界で唯一、誰にも覆せぬ壁じゃ」


 だからこそ勇者アルトリウスの持つ『無限新生』は、聖剣の奇跡として語り継がれ、畏怖されるのだと彼女は続けた。世界が滅びかけたときにだけ神が一時的に貸し出す例外であり、人の手に届く技ではないのだ、と。


 その厳粛な言葉に、信はしばし顎を撫でてから、実に軽やかに言い放った。


「へえ。じゃあ、試してみましょうか」

「軽ッ!! 話を聞いておったのかお主はーーーッ!!」


 昼を過ぎるころには、二人の姿は骸森の上空にあった。


 『天翔のペンダント』で飛んできた、樹海を見下ろしながら、信はのんびりと注文をつける。


「実験するなら、ちょっと開けた場所がほしいですねー」

「少し待っておれ」


 空中で足停止したエルミニアが、低く言葉を紡ぎはじめる。彼女の掌の先に、幾重にも折り重なった紫紺の魔法陣が音もなく展開し、その中心へ膨大な魔力が渦を巻いて吸い込まれていった。


「――穿て」


 放たれた一撃が樹海へ届いた瞬間、耳を殴りつけるような爆音が轟き、太古から生きてきた大樹の群れが土ごと吹き飛ばされていく。土煙が晴れたあとには、円形に均された空き地が、まるで最初からそこにあったかのように広がっていた。


「……やはりのう」

「まぁ、空き地はこれくらいでよかろう」


 術式の手応えを確かめて、ひとり頷いた彼女の隣で、信は目を輝かせていた。


「うぉ、すごい! さすがエルミニアさんだ、最強の魔女って異名は伊達じゃないですね! かっこよかったです!」

「そ、そんなにおだてるでないわい」


 まんざらでもなさそうに鼻を鳴らしながら、エルミニアの耳の先は、しっかりと赤く染まっていた。


 降り立った空き地の中央へ、信は『アイテムボックス』から、時間停止をかけたままの赤竜の死骸を取り出した。あの日、脳だけを抜き取られて即死した個体である。傷ひとつない巨躯が横たわった途端、周囲の空気が張りつめた。


 エルミニアは万一に備え、幾重もの拘束魔法を死骸へ叩き込んでから、忌々しげに距離を取る。


「よいか、絶対に無茶はするでないぞ」

「はーい。それじゃまず、触らずにやってみますね」


 手をかざし、巻き戻れと念じてみる。だが、いくら意識を集中させても、竜の巨体は微動だにしなかった。


「やはりのう。物とは違い、生命はそう甘くはないか」


 どこか安堵したように息を吐いたエルミニアの前で、信は「じゃあ次」と、あっさり竜の鱗へ掌を押し当てた。


 刹那、巻き戻された時間が、鱗を伝って肉体を駆け上がった。


 止まっていた血が流れ出し、萎びかけていた筋肉が張りを取り戻し、抜き取られたはずの脳が、あるべき場所へ音もなく編み直されていく。閉じられていた瞼が持ち上がり、黄金の双眸に、獰猛な生の光がぎらりと灯った。


 大気を引き裂く咆哮とともに、竜が立ち上がった。


「い、生き返ったーーーッ!? ありえん、ありえんのじゃーーーッ!!」


 絶叫したエルミニアの前で、拘束の鎖が軋みを上げ、竜の喉の奥では、岩をも溶かす熱が膨らみはじめている。


「むっ、まずいのじゃ! ブレスが来るぞーーっ!!」


 彼女が咄嗟に幾重もの魔法障壁を編み上げた、まさにその瞬間だった。


 膨らみかけた熱が唐突に萎み、竜の巨体が糸を切られた人形のように崩れ落ち、地響きを立てて再び動かなくなる。信の目の前には、すでに、くり抜かれた脳がぽつんと転がっていた。


「大丈夫でしたか?」

「お主はーーーーーッ!!」


 肩で息をしながら、エルミニアは震える指を突きつけた。魔女としての彼女の頭は、しかし怒りの裏側で、恐ろしい速度で回転を始めている。二千年のあいだ壁として立ちはだかってきた「死」が、たったいま、目の前で軽々と踏み越えられたのだ。世界の理が音を立てて軋むのを、彼女は確かに聞いた気がした。


「心臓に悪いにも程があるわ! ……じゃが、そうか。触れねば効かぬのじゃな」

「みたいですね。効果を出すには接触が要るみたいですねー」

「もうひとつある」


 険しい顔つきのまま、彼女は倒れた竜を睨んだ。


「この骸は腐りもせず、崩れもせず、死んだ直後の形をそのまま保っておったのじゃ。ゆえに、巻き戻すべき時の糸が、途中で切れておらん」


 彼女はそこで言葉を切り、噛みしめるように結論を口にする。


「つまりお主が戻せるのは、死んだばかりの者か、骸がきれいなまま残っておる者だけと推察する。朽ち果て、土に還ってしまった者には届かぬのじゃろうて」


「まぁ……それが、この世界にとっての唯一の救い…というものでもあるのじゃ」


 その言葉を聞きながら、信はほんの一瞬だけ、遠くを見るような目をした。


 病室で痩せ細っていった妻の手を、彼はいまでも覚えている。だがあの人は、もうとっくにこの世界の外側にいて、灰も骨も別の世界に眠っている。この力は、失われたものを取り返す力ではないのだと、彼は静かに、そして深く納得した。


「……ま、そうですよね。都合のいい話は、そうそう転がってません」


 肩をすくめた信は、次の瞬間には、いつもの調子で竜の死骸を見下ろしていた。


「でも、ちょっと面白いかも……」

「なんじゃと?」


 掌を鱗へ押し当てれば、竜はふたたび咆哮とともに蘇り、脳を抜かれてまた沈黙する。もう一度触れれば、また目を覚まし、そして間もなく崩れ落ちる。それからしばらくのあいだ、同じことが黙々と繰り返された。


 何度目かに目を覚ました赤竜は、もはや災厄の面影など、どこにも残していなかった。


 鋼鉄よりも硬い鱗を震わせ、黄金の瞳をびしょびしょに濡らしながら、巨体を必死に縮こまらせてエルミニアの背後へ回り込み、彼女の魔女服の裾を爪の先でおずおずと引っぱっている。


「ぎゅ、ぎゅるるる……」

「……お、おい、ワシを盾にするでない」


「殺しますか?」


 信が朗らかに尋ねた瞬間、赤竜は首がもげそうな勢いで、ぶんぶんと横に振った。涙目のまま、エルミニアへ必死の眼差しで訴えかけてくる。


 二千年を生きた最強の魔女の胸に、生まれて初めて、竜への同情がこみ上げた。


「……ええい、わかった、わかったのじゃ! 使役魔法で繋いでやるゆえ、もう泣くでないわ!」


 紫紺の光が竜の額へ吸い込まれ、主従の契約が結ばれる。安堵のあまり地面へへたり込んだ竜を眺めながら、信は実に晴れやかな顔で言った。


「一匹じゃ寂しいでしょうし、あと何体かやりましょう!」

「お主は人でなしかーーーーッ!!」


 その日のうちに、同じ手順が何十回と繰り返され、竜は締めて十体になった。


「よいか、竜という種はな、知能も誇りも高すぎて、そもそも使役魔法など受け付けぬのじゃぞ。何百年生きた魔法使いが挑んでも、鼻で笑われて焼かれるのが関の山じゃ」


 そう説明しながら、エルミニアは天を仰いだ。目の前では、世界最強格の生物が十体そろって身を寄せ合い、恐怖に打ち震えながら、必死に愛嬌を振りまいている。


「僕とエルミニアさんの指示には、しっかり従うこと。困らせたら即、脳を抜くからな!」


 竜たちは、ぎゃあぎゃあと甲高い声を上げながら、揃って何度も頷いてみせた。これから彼らは荷を運んで屋敷の空を警戒し、時にはエルミニアの材料調達まで遠方から運んでくることになるのだが、そんな未来を知る由もない竜たちは、ただ必死に主の顔色を窺っていた。


「それじゃ、名前をつけていこうか。リーダーは君だな。……よしお前は『ポチ』だ!」

「ぽ……ぽちじゃと…? なんじゃ、その情けない名前は……」

「あとはタロウ、シロ、ハチ、コロ、クロ、アカ、ゴン、モモ、ジョンで!、覚えやすいでしょう?」


 誇り高き空の覇者たちが、地球の犬の名を授かって嬉しそうに尻尾を振っている光景を前に、エルミニアは頭を抱えてうずくまった。


「討伐に国が傾くこともある竜種が……『ポチ』……。なんか違うのじゃ、絶対に違うのじゃーーーッ!!」


 悲鳴じみた抗議もむなしく、当のポチは自分の新しい名がすっかり気に入ったらしく、地面に鼻先を擦りつけながら、しきりに主の手のひらへ頭を押しつけていた。飼い犬のように喉を鳴らす世界最強格の生物を眺めて、エルミニアはもはや何も言うまいと心に決めた。


 その騒ぎがようやく落ち着いたころ、エルミニアが珍しく神妙な顔で、そっと信の袖を引いた。


「……のう、シン。ワシにも、その時間逆行とやらを使ってくれんか」

「いいですけど、どうしてです?」


 言いよどんだ彼女は、褐色の指を所在なく組み合わせてから、目を伏せて打ち明けた。


「魔力そのものは『魔力吸収』で、いくらでも汲める。じゃが、一度に魔力を溜めておける器のほうがな、数百年前から少しずつ小さくなってきておるのじゃ。ここ百年は、とりわけ顕著でな。……老いとは、そういうものじゃ」


 二千年を生きてきた者が、初めて他人へ差し出した弱音だった。誰にも縋らず、衰えすらも独りで抱えたまま研究の記録へ書き付けてきた魔女が、いまはただ目の前の男の返事を待って俯いている。


 信は何も茶化さず、彼女の手をそっと取ると、静かに時を遡らせていった。五百年、千年と……


 姿形は、髪の一筋すら変わらない。だが彼女の内側では、細り痩せていた器が音を立てて広がりはじめ、やがて全盛期の魔力が、地鳴りのように骸森全体を震わせた。竜たちが慌てて地に伏せ、樹々がざわめき、大気そのものが軋みを上げる。


「な……なんじゃ、これは。全盛期どころか、あの頃よりも……」


 己の掌を見つめて呆然とするエルミニアの隣で、信はぽろぽろと涙をこぼしていた。


「……なんじゃ、シン。ワシの魔力が戻ったのが、そんなに嬉しいのか?」

「違います……」


 涙を拭いもせず、信は真顔で彼女を見つめた。


「エルミニアさんは、千五百年前から今まで、何ひとつ変わらず美しいんです。この事実が世に知れ渡ったら、間違いなく世界中の女性を敵に回しますよ。……それが、あまりにも感動的で」


 エルミニアの目が、ゆっくりと白目を剥きかけた。


「……そうじゃな。ワシが真面目に聞いたのが、悪かったのじゃ……」

「いや本当に、エルミニアさんは素晴らしすぎます」

「……そうか」


 消え入るような声で答えた彼女は、真っ赤になった顔を隠すように、そっぽを向いてしまった。


 その夜、寝台に横たわったエルミニアは、天井を見上げたまま、昼間の出来事を何度も反芻していた。


 器具が新品に戻り、死んだ竜が息を吹き返し、自分の失われた器までもが取り戻された。あの男は時を巻き戻す。物であれ生命であれ、失われかけたものを、あるべき姿へ引き戻してしまう。


 そこまで考えて、彼女はふと、恐ろしいことに気づいてしまった。


 エルフの寿命は長く、とりわけ彼女の血は不老に等しい。ところがあの男は人間であり、いつか必ず老いて衰え、自分より先に逝ってしまう。二千年ものあいだ、彼女が誰とも深く関わろうとしなかった本当の理由が、まさにそれだった。置いていかれるのは、いつだって自分のほうなのだ。


 葬列を見送るのは、これまでいつも彼女の役目だった。名を呼び合った弟子も、笑い合った知己も、みな順番に朽ちていき、彼女だけが同じ姿のまま実験机に残されてきたのである。


 だが…シンは、時間を巻き戻せる。


(……ならば。ワシがこやつを手放さぬかぎり、あやつは永遠に――)


 胸の奥にぽっと灯った熱を、喜びと呼んでよいのかどうか、彼女には分からなかった。ただ、もう二度と誰にも渡さぬという確信だけが静かに、そして深く根を張っていくのを、彼女は止めようとも思わなかった。


 窓の外では、腹を満たしてもらった十体の竜が満足げに丸まって眠り、その遥か向こうでは、世界が今日もせわしなく動いている。


 第十四話 了

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