第十二話「安全・確実・無傷な倒し方」
メイドたちが屋敷の一切を引き受けてくれてからというもの、信の一日には、これまで想像もできなかったほど贅沢な空白が生まれていた。洗濯物も食器も廊下の埃も、彼が手を伸ばすより先にきれいさっぱり片づいてしまうのだから、余った時間の使い道を考えることこそが、いまや彼のささやかな悩みになっている。
そんな彼が始めたのが、『結界の楽園』の広大な敷地を使った、ひとりきりの実験だった。きっかけは、エルミニアから手ほどきを受けた『魔力波』にある。体内で練り上げた魔力を光として外へ放つその技を、信は前世で読み耽った格闘漫画の要領であっさり会得してしまったのだが、繰り返し撃ち込むうちに、彼はひとつの重大な事実へ行き当たっていた。放たれる魔力の形が、頭のなかに描いたイメージの精度へ、寸分たがわず従うのである。
「……ということは、だ」
庭の奥へ据えた巨岩に向き直った信は、右手の人差し指と中指をそろえながら、頭のなかで一枚の円盤を思い描いていった。超高速で回転し、触れたものをことごとく断ち切っていく光の刃を、輪郭も厚みも回転の向きまで余さず描き切ったところで、彼は静かに指先を振り抜いた。
「『魔円斬』!」
指先から迸った光の円盤が、甲高い唸りを引きずって宙を裂き、そのまま巨岩へと吸い込まれていく。硬い岩が抵抗した気配などまるでなく、あまりに滑らかな断面を晒したまま上半分がずるりと滑り落ちて、地面を重く揺らした。
(よし、次だ!)
両の掌を胸の前で引き絞るようにして魔力を練り、その先端へ光を細く伸ばしていくと、陽炎めいて揺らいでいたそれが、やがて一振りの剣の形へと確かに固まっていった。『魔功剣』と名づけたその刃で手近な倒木を薙ぎ払えば、断面から白い煙が糸のように立ちのぼる。返す手で左腕を掲げ、今度は盾の形へと魔力を敷き詰めていくうちに、六角形の光が幾重にも折り重なって『魔功盾』を編み上げていった。試しに岩塊を放り投げてぶつけてみたところ、乾いた破裂音とともに、砕け散ったのは岩のほうだった。
「よしっ!」
小さくガッツポーズを決めた信は、その勢いのまま腕を横薙ぎに振るう。刃など何ひとつ握っていないはずのその一振りから、空間そのものを裂くような斬撃波が奔り抜け、遠くの木立を一列まとめて音もなく両断していった。『魔功飛斬』と口のなかで呟いてから、彼はさらに両腕を高々と掲げ、たっぷりと時間をかけて魔力を溜め込んでいく。
「溜めが要るのが玉に瑕なんだよなあ……いくぞ、『魔功大地斬』!!」
振り下ろされた腕の軌跡をなぞるようにして、大地が真一文字に裂けた。地鳴りが芝を震わせ、土煙が空へ立ちのぼっていくのを見上げながら、信は何度もしみじみと頷いた。
「やっぱり、地球の漫画やアニメやゲームの知識は偉大だなあ……。イメージの引き出しが、いくらでもあるじゃないか!」
その一部始終を、エルミニアはテラスの特等席から眺めていた。信の錬成した高級な紅茶を啜り、地球のクッキーを上品にかじる彼女の紫紺の瞳は、呆れと好奇心のあいだで忙しく揺れている。
(……魔法の素養など皆無のはずなのに、あの『指向性と形状の固定』はなんじゃ。理屈がまるで分からん。じゃが、本当に面白いのう。おそらく原因は、あやつの頭の中にある、確固たる明確なイメージなのじゃろうて)
新しい技がひとつ決まるたび、少年そのものの顔で「よしっ!」と拳を握る男を、二千年を生きた魔女は、自分でも気づかぬほど愛おしげに見つめていた。
ひとしきり実験を終えた信は、冷たい麦茶を手にエルミニアの隣へ腰を下ろすと、ずっと胸に温めていた問いを、いよいよ口にした。
「エルミニアさん、質問があるんですが……この世界に『ドラゴン』っているんですか?」
「ん? おるぞ。人里からは遠く離れた険しい霊峰や、世界の境界近くに群れを作って棲んでおるわ」
「やっぱり、恐ろしい存在なんですか?」
カップを置いたエルミニアの表情から、ふっと笑みが引いた。
「当然じゃ。奴らは高い知能を持ち、並の魔法など弾き返す強固な鱗と、都市ひとつを一瞬で灰に変える息吹を備えておる。
………じゃが、真に恐ろしいのは、群れをなさぬ『単独竜』のほうじゃ」
「単独竜? どんなふうに恐ろしいんですか?」
「個としての強さが圧倒的すぎるがゆえに、群れる必要すら持たず孤高に生きる種じゃな。その中には『竜王』と呼ばれる、災厄級の個体すらおるのじゃぞ」
信の目が、これ以上ないほど爛々と輝いた。
「うわぁ、凄い! もろファンタジーってカンジだ! ぜひ一度、本物を生で見てみたいです! エルミニアさん、なんとか見に行けませんか? お願いします!」
「何を言うか。いくらお主であろうと、あれは観光気分で眺めに行くようなものでは――」
「もしこのお願いを聞いてくれたら……一週間連続で、エルミニアさんのご要望の地球産特製スイーツを、毎食後、完璧に提供します!」
「ご、ご要望のスイーツが……い、一週間連続、毎食後……っ!?」
ごくり、と喉が鳴った。とろけるような生菓子も、冷たく甘い氷菓も、まだ名前すら知らぬ甘味までもが次々と脳裏を駆けめぐり、最強の魔女の防衛線は一瞬にして崩壊する。それでも彼女は精いっぱい胸を張り、威厳らしきものをかき集めながら咳払いをした。
「……ご、ゴホン! ま、まぁ、シンがそこまで言うのであれば、ドラゴンを見に行くのも吝かではないのう! 竜の鱗も血液も魔力の結晶も、すべて最高級の魔法素材じゃからな。ちょうど手元が寂しかったところじゃし、少しばかり『狩り』に出るのも悪くはないわい。ワシにすべて任せるのじゃ!」
「おぉー! ぜひよろしくお願いします、エルミニアさん! さすが頼りになりますね!」
満面の笑みで褒めちぎられたエルミニアは、澄ました顔の裏で、緩みそうになる口元を必死に押さえ込んでいた。
数日後……
二人の姿は雲の只中にあった。信の錬成した『天翔のペンダント』が、二人の体を重力の軛からやすやすと解き放ち、風の抵抗も超音速の慣性さえも内側で吸い取ってしまうため、飛行というより空を散歩しているような心地よさなのである。
「転移も一瞬で楽なんですけど、難点は自分で行ったことのある場所や視界に収めらる場所にしか跳べないことなんですよねー。まぁ、こうやって自分の体で空を飛びながら、ファンタジーな景色を眺めるのも、これはこれでいいモノですけど!」
眼下を流れていく峻険な山並みを見下ろして、信は屈託なく笑った。
「地球じゃ、自分の力で空を飛ぶなんて、逆立ちしたって無理でしたからねー!」
その横顔を、エルミニアは少し遠い目で見つめていた。
(……飛行魔法というものは、常に緻密な魔力制御と莫大な魔力の消費を強いるものじゃ。じゃがこの『天翔のペンダント』ときたら、魔力の消費が一切感じられん。もはや魔法ではなく、『スキル』に近い代物じゃな……)
やがて霊峰の麓へ降り立ったところで、エルミニアが低く短い呪文を紡ぐと、淡い燐光が二人の輪郭をなぞり、そのまま風景のなかへ静かに溶かし込んでいった。
「おお! 自分の体が完全に透けて見える! 周りの景色に溶け込んでるみたいだ。そんな魔法まであるんですか?」
「ふふん、姿だけではないぞ。気配も魔力も、臭いまでも完全に遮断する高度な隠密魔法、『不可視』じゃ。何を隠そう、この魔法もワシが独自に編み出したものでな」
「おー! さすがエルミニアさんだ! 本当に何でもできる天才ですね!」
「まぁのう! ワシにかかれば、これしきのことは造作もないわい!」
鼻を高くしてふんぞり返る魔女を伴い、信は地面すれすれを滑るような超低空飛行で、竜たちの巣食う渓谷へと音もなく近づいていった。
荒々しい岩肌の陰に身を潜め、眼下を覗き込んだ瞬間、信の呼吸が止まった。
「シン、あれじゃ。あそこにおるのが、ドラゴンじゃ」
エルミニアの褐色の細い指が示した先、岩がちの荒野に鎮座していたのは、トカゲなどという生易しい言葉では到底追いつかない、文字どおりの暴虐の体現だった。鈍い鉄色と深紅の入り混じった鱗は鋼鉄よりも硬く、一枚一枚が盾のように重なり合って、光を鈍く弾き返している。一呼吸ごとに鼻裂から吹き出す黒煙は硫黄の臭気を孕んでおり、その熱気だけで周囲の岩石が赤く融けはじめていた。
一頭が悠然と上空を旋回すれば、その巨大な翼が叩き起こす風圧が、遠く離れた岩陰にいる信たちの頬までも強かに打ち据えていく。黄金の双眸に宿るのは高い知性と冷酷な捕食者だけが持つ底光りであり、ただそこに在るというだけで、渓谷の生態系そのものが文字どおり圧殺されていた。
「ホントだ! まさにイメージ通りのドラゴンだ! CGじゃなくて、本物を生で見られるなんて……めちゃくちゃ凄い迫力ですね!」
声を潜めながらも、少年のように目を輝かせている信の横顔を見て、エルミニアの胸の奥が、ふいに温かく疼いた。
(……ワシは、スイーツのためだけにここへ来たのではないのかもしれんのう)
自分でもよく分からないまま、彼女はほっこりと目を細めて微笑んでいた。
「さて、見物も済んだことじゃし、そろそろ何匹か狩るとしようかの。ワシが魔法でまとめて消し飛ばしてやるわい」
「あのー、エルミニアさん。ちょっと質問なんですけど、普段ってドラゴンをどんな感じで狩ってるんですか?」
「ん? 上空から広範囲の殲滅魔法を一発ぶち込むだけじゃ。一撃で屠らねば、反撃のブレスが厄介じゃからな」
「えっ。それだと、せっかくの鱗とかの素材が傷ついたり、燃え尽きたりしませんか?」
「それは仕方のないことじゃ。じゃから、ある程度きれいな形の素材が残るのを期待して、多めに数匹狩る。それがこの世界の常識というものじゃよ」
信はしばらく黙って顎に手を当てていたが、やがて実にあっさりと切り出した。
「……なるほど。じゃあ、それ、僕にやらせてもらえませんか?」
エルミニアが弾かれたように顔を上げた。
「シン、気持ちは分からんでもないが、お主は魔法が使えんじゃろう? いくら強力な魔法アイテムを持っておるとはいえ、あの巨体に接近するのは危険が過ぎる。ダメじゃ、許可できん!」
「地球にいた頃……物語のなかで魔獣を倒す時は、派手な魔法や伝説の武器や、大技で戦うのが定番だったんです」
やわらかく微笑みながら、信はどこか懐かしそうに続けた。
「でも、いざ実践するとなったら、もっと危険が少なくて、効率的で合理的な倒し方はないだろうか。どんな能力が必要か?」
「……そんなことを子供たちと昔、大真面目に話し合ったことがあるんですよ。それをちょっと試してみたいんです」
「むっ……それは、今のシンにはできることなのか」
「ええ。多分、この安全な岩陰から一歩も動かなくても大丈夫だと思いますよ」
一歩も動かずに、あのドラゴンを――口のなかでそう繰り返したエルミニアは、研究者としての抑えがたい好奇心に負けて、渋々ながら頷いた。
「……まぁ、少しは興味があるのう。わかった、やってみよ。ただし、少しでも危ういとワシが判断したら、即座にワシの魔法で介入するからのう!」
「ありがとうございます、エルミニアさん。助かります」
信は岩陰に佇んだまま、静かに呼吸を整えた。武器を構えることさえしない。
まず発動したのは『限定天眼』だった。彼の視界が、最も近くにいる巨大な赤竜の頭部へと一気に肉薄していく。鱗の一枚ごとの微細な傷も、獰猛に閉じられた顎の稜線も、手を伸ばせば触れられそうなほど克明に映し出された。
そこから彼は、意識を「透視」へと静かに切り替えていく。
外皮が透け、分厚い筋肉が透け、あらゆる衝撃を弾き返すはずの強固な頭蓋骨までもが、信の視界のなかで次々と透過していった。網の目のように張りめぐらされた太い血管と、ドクドクと脈打つ魔力の流れを辿った先に、その巨躯のすべてを統べる中枢が――ドラゴンの脳が、静かに鎮座している。
照準を完全に固定した信は、間髪入れずに『限定時空間操作』の「転移」を発動した。通常の魔法であれば、竜の誇る対魔法障壁と生物的な抵抗力に阻まれ、届く前に霧散していたはずである。だが彼の力は、限定されているとはいえ神の権能に連なるものであり、外側の皮膚にも骨にも障壁にも一切触れぬまま、内側の一点だけを座標として掴み取ってしまう。
刹那、渓谷を不気味なほどの静寂が支配した。
あれほど大気を震わせていた覇気が何の前触れもなく途切れ、糸の切れた人形のように赤竜の首がカクンと落ちた。黄金の瞳から光が消え失せた次の瞬間、そのあまりにも巨大な肉体が重力に従い、ドサァァァァァァン!!! と大地を激しく揺るがす地響きを立てて倒れ伏した。
傷ひとつなく、流血すら皆無であり、ただ細胞のすべてが一瞬で活動を止めたまま、竜は完全な無傷のかたちで即死していた。
そして信の目の前には、空間ごと綺麗にくり抜かれた竜の脳が、ぽつんと転がっている。
「よし、大成功! 狙い通りーーー!」
無傷のまま横たわる竜の巨体を見渡して、信は営業時代に大口の契約を決めたときと同じ顔で、無邪気に喜んだ。
「これなら安心安全ですし、最高の素材がお得感増し増しで手に入りますね!」
その一部始終を特等席で眺めていたエルミニアの思考は、完全に凍りついていた。顎が外れそうなほど口を開け、綺麗な目を見開いたまま、彼女の全身は小刻みに震えつづけている。
「……は? ……え? な、何が起きたんじゃ……? ド、ドラゴンが、一瞬で倒れた!?」
「え? 『限定天眼』で脳の位置を透視して、『限定時空間操作』で脳だけを外に転移させたんです。これなら相手が暴れる隙もないですし、反撃のブレスを喰らう危険もゼロですよ。おまけに最高の素材が無傷で手に入ります!」
「な、なんちゅー恐ろしい倒し方をするのじゃ、お主はーーーーーっ!!!」
渓谷の岩壁に、二千年ぶんの絶叫が反響した。
「ワシが生きてきた二千年のあいだ、あのような恐ろしい狩り方をした者は、魔王も勇者も含めて、誰ひとりとしておらんかったわ!! 素材が無傷なのは天を仰ぐほど嬉しいし、効率的なのも認めよう。じゃがな、一歩も動かず、傷ひとつ付けずに竜を即死させるなど……お主、魔王よりよほどタチが悪いぞ……!」
最強の魔女としての矜持も、この世界の戦闘の常識も、一人の徹底した効率主義によって、粉々に打ち砕かれてしまった。
「ええ〜、ひどいなぁ」
苦笑した信は、そっと手を伸ばし、震えるエルミニアの褐色の小さな手を、両手で包み込むように握った。
「僕はただ、エルミニアさんに危険な思いをさせたくなかっただけですよ?」
「……え?」
「どれほどエルミニアさんが『最強の魔女』だとしても、目の前で戦う姿を見るのは、やっぱりハラハラしますから。僕にとっては、エルミニアさんの安全が何よりも最優先なんです。無傷で、安全に終わって本当に良かった」
打算も下心も何ひとつ滲まない、百パーセント本気のまっすぐな目が、彼女を射抜いていた。
いつもなら無防備で可愛いだの世界一美しいだのと軽口を叩かれて、「うるさいわい!」と怒鳴り返すのがお決まりの流れだったのに、今日ばかりは勝手が違っていた。底の知れない強さと、自分だけへ注がれた深く真剣な気遣いを同時に突きつけられて、エルミニアの胸の奥が、ドクン!! と痛いほどに高鳴った。
「っ……ドラゴンを倒したことよりも、ワシの、安全……?」
褐色の頬が、耳の根元まで見る間に赤く染まっていく。
生まれて初めて――いや二千年ぶりに、彼女は一人の男を「異性」として、そして自分の守り手として明確に意識してしまった。
「……そ、その……。……まぁ……心配してくれて、ありがとうのぅ」
蚊の鳴くような、いつになく女の子らしい素直な声だった。だが、それを口にした瞬間、凄まじい羞恥が彼女の許容量をあっさり振り切って爆発した。
「あ、あーっ! 今のは忘れるのじゃ! ワシは別に、お主に守られずとも平気なんじゃからなーーっ! か、帰ったら、早くスイーツを食べさせるのじゃぞーーーっ!!」
両手をジタバタと振り回し、顔面を真っ赤にして大パニックに陥っている魔女を、信は「やっぱりエルミニアさんは可愛いなあ」と、心の底から愛おしそうに見つめていた。
こうして竜の骸の転がる渓谷で、二千年を生きた最強の魔女は、静かに、そして決定的に恋という名の落とし穴へ足を踏み外したのだった。
第十二話 了




