第十一話「魔法は使えないはずが」
同居の暮らしがすっかり板についてきたある日の午後、信は『結界の楽園』の広い庭で、エルミニアから魔力の基礎指導を受けることになった。芝はメイドたちの手で青々と刈り揃えられ、頭上を覆う『常世の絶結界』の膜が、木漏れ日を虹色に散らしている。
まずはとばかりに、エルミニアは信の全身を隅々まで鑑定し、そして案の定というべきか、深いため息をついた。
「やはりお主、この世界の『魔法』は逆立ちしても使えん性質じゃな。魂の器が神から授かったスキルで満杯でな、魔法が使える隙間が、これっぽっちも残っておらん」
「やっぱりそうかぁ。ちょっと異世界ファンタジーの定番だった魔法は、少し…憧れてたんですけどねー」
信は残念そうに肩をすくめてから、あっさりと笑ってみせた。
「まあ、あのとき実利を取ったのは僕自身ですし、そこは諦めてます」
そうは言ったものの、内心では少しばかり未練があった。異世界に来て杖を振るい、指先から炎を生む――そんな絵に描いたような魔法使いの姿に、憧れなかったと言えば嘘になる。もっとも、あの白い空間で命の保険を優先した判断そのものを、信はいまでも間違っていたとは思っていなかった。
ところが、彼の体内をなおも探っていたエルミニアの眉が、途中でぴくりと動いた。魔法こそつかえないものの、そこを流れる魔力の量と純度が、そこらの大魔導師など軽々と凌駕していたのだ。
(……妙じゃな。器は塞がっておるのに、中身は溢れんばかりに満ちておる。ならば術式を介さぬ、より基本的な使い方であれば……)
「シン、少し試してみるぞ。まずは魔力というものを、体で覚えてもらう」
言うが早いか、エルミニアは信の両手を、自分の掌でそっと包み込んだ。褐色の指先はひんやりと滑らかで、それでいて確かな体温を伝えてくる。
「エルミニアさん、手が繋げて幸せです」
「ま、真面目にやるのじゃ!」
頬をかっと染めながらも、彼女は繋いだ手を離さなかった。離さなかった理由を、彼女自身も深くは考えないようにしている。
やがてエルミニアは目を伏せ、自らの魔力を細く長く、静かに流し込みはじめた。
その瞬間、信の腕から胸へと、温かくもどこか痺れるような奔流が、ゆっくりと押し寄せてきた。血管を辿って全身へ広がっていくそれは、水のようでもあり、光のようでもあり、けれど確かに『力』としか呼びようのない感触を伴っている。
「……この感覚が、魔力ですか」
「そうじゃ。まずはそれを、自分の内側にも見つけるのじゃ」
目を閉じた信は、エルミニアに教わったとおり、自分の体の隅々にまで意識を降ろしていった。太い血管から細い血管へ、さらにその先の毛細血管の一本一本にまで、いま感じたばかりの力を巡らせていくところを、彼は強く思い描く。
やがて信の全身から、陽炎のような揺らぎが立ちのぼりはじめ、周囲の空気がびりびりと震え出した。
「おお、なんだこれ。体が軽いっていうか、力がみなぎってくる感じがします! これが身体強化魔法なのかな?」
試しに足元の石を軽くつまみ上げてみると、大人が両手で抱えるほどの重さがあったはずのそれが、まるで発泡した菓子のように、なんの手応えもなく持ち上がってしまう。放り投げれば、庭の向こうの木立まで軽々と飛んでいきそうだった。
夢中で拳を握りしめながら、信はひとりごちた。
「……某気功バトル漫画も、こんな感じだったのかなぁ」
「シン、その調子で、循環をもっと速く回してみよ」
言われるまま、信は体内の流れを加速させた。渦を巻いて全身を駆けめぐる魔力が、回転するたびに密度を増していき、彼の輪郭そのものが淡く光りはじめる。
「おぉー、魔力が増幅している感覚がわかるぞ!」
その光景を見たエルミニアの頬を、つうと冷や汗が伝った。
「ち、ちょっと待てシン! ただ魔力を練るだけで、そこまでの出力になる奴があるか! お主、その基礎の身体強化だけで、城壁を素手で粉砕できるぞ……!」
だが、当の信はもはや聞いていなかった。魔力が思いのままに動くという事実に、彼の中の少年心が、猛烈な勢いで目を覚ましてしまったのである。
(このまま魔力をイメージで手に集めて、そのまま放出すればいいんじゃないか?)
その発想の先にあるものを、彼の世代の男なら誰もが知っていた。前世で誰もが一度は真似た、あの伝説的な漫画の技を、信は迷わず再現しにかかる。
腰を深く落とし、両の手を脇へ引き絞り、掌と掌のあいだへ、練り上げた魔力をひたすら集めるイメージをする。
その構えを見た瞬間、エルミニアの背筋を、理屈ではない悪寒が走り抜けた。魔法の理から言えば、術式もなしに練り集めただけの魔力など、放てば四方へ霧散して消えるはずなのだ。それなのに、信の掌のあいだで凝縮していく塊は、拡散するどころか、際限なく密度を増しつづけている。
「シン、待て。待つのじゃ、それは――」
「両手からビームが出るイメージで…よし……!」
両の手のひらの間に、光が生まれた。それは周囲の魔力を巻き込みながら急速に一点へと引き絞られ、太陽と見紛うほどの密度を持った純粋な球体へと凝り固まっていく。
「――波ーーーーーーーーっ!!」
絞り出された両腕の先から、光は奔流となって天へ迸った。極太の光条が虹色の結界をやすやすと突き抜け、絶界の骸森の空を一直線に切り裂き、雲を一文字に断ち割って、遥か天蓋の彼方へと消えていく。遅れて襲いかかった衝撃波に、あの絶対無比を誇る『常世の絶結界』ですら、一瞬だけ激しく明滅した。
庭に静寂が戻ったあと、エルミニアはあんぐりと口を開けたまま、しばらく声も出せずにいた。
屋敷の窓辺には、いつのまにか睦月をはじめとするメイドたちが整列していて、空へ伸びた光の柱の残滓を、一様に静かな目で見上げていた。
「旦那様の魔力放射を確認。脅威判定は……対象外と分析いたします」
「奥様の結界が耐えた以上、庭木への被害もございません。ご安心を」
まるで庭の水撒きでも眺めるような口ぶりで報告を交わすメイドたちに、エルミニアは頭を抱えたくなった。この屋敷では、世界の理が壊れることすら、日常業務の範囲に収まってしまうらしい。
「な、ななな……なんじゃ今の光の柱はーーー!?」
我に返るなり、彼女は信の襟首をつかんで、がくがくと揺さぶりはじめた。
「術式もなければ詠唱もなく、魔法陣の展開すらなく、純粋な魔力の塊をあそこまで圧縮して、ぶっ放したというのか!? ありえん、そんなものはありえん……いや、待て。これは大発見かもしれんのじゃ……!」
「できた……! いやー、昔さんざん子供たちとポーズだけ真似たんですよねぇ」
感慨深げに自分の掌を見つめてから、信は満面の笑みで振り返った。
「エルミニアさん、今のは多分、魔法じゃないので『魔功波』って名付けますね!」
「まこう、は……」
頭を抱えてその場にしゃがみ込んだエルミニアだったが、その瞳の奥では、天才研究者としての血がすでに沸き立っていた。術式に依らず、魔力そのものを直接ぶつけるという発想は、この世界の魔法史のどこにも存在しない。
そして彼女は、その意味するところに思い至って、ぞくりと肌を粟立たせた。対魔法防御というものは、突き詰めれば「術式を読み取り、それを打ち消す」ことで成り立っている。ところが術式を持たぬ魔功波には、読み取るべき式そのものが存在しないのだ。
(……つまりこやつの一撃は、この世界のあらゆる魔法防御を、素通りするということじゃ。魔法無効の結界であろうと、対魔障壁であろうと、何ひとつ意味をなさん)
魔法という体系の外側から、力だけを叩き込む戦い方――そんな新しい理が、いま目の前で産声を上げたのだった。
その夜、別棟の研究所では、エルミニアが羊皮紙に凄まじい勢いでペンを走らせていた。
いつも整えられている銀髪はすっかり乱れ、机の周りには走り書きだらけの紙が雪のように散らばっている。魔力の圧縮率、放出時の指向性、術式を介さぬがゆえの伝達速度――彼女の頭の中では、二千年ぶんの常識と、今日生まれた新概念とが、猛烈な勢いでせめぎ合っていた。
こんなにも心が躍るのは、いったい何十年ぶりだろうかと、エルミニアはふと手を止めて考えた。未知に触れる歓びを、彼女はとうの昔に忘れていたはずだったのに、あの男は現れてからというもの、当たり前の顔で次々と未知を運んでくる。そのたびに彼女の常識は壊され、そして壊されるたびに、なぜか胸の奥が満たされていくのだった。
「エルミニアさん、休憩のお茶ですよ」
湯気の立つハーブティーを盆に載せて現れた信は、机に向かうその横顔を見て、ふと足を止めた。ランプの灯りが褐色の肌を淡く照らし、真剣なまなざしが紙面のうえで揺れている。
「……それにしても、集中してるエルミニアさんも、すごくきれいだ」
ペンを持つ手が、がたりと止まった。
「ふ、ふん。世辞は要らん……と、言いたいところじゃが」
エルミニアはうつむいたまま、耳まで真っ赤に染めて、蚊の鳴くような声で続けた。
「お主はいつも、息を吐くように、そういう恥ずかしいことを言う……っ」
以前の彼女なら、じゃかましいと叫んで枕を投げつけていたところである。それがいまでは、投げるものを探す気力も湧かないまま、差し出されたカップを両手で受け取ってしまうのだから、我ながら始末に負えなかった。
(……慣れてしもうた、というのとは違う。この男の言葉は、いつまで経っても慣れん。慣れんくせに、聞くたびに胸の奥があたたかくなって、もっと聞きたくなってしまうのじゃ。……これは、まずいのう)
自分でも危ういと分かっているのに、彼女はその危うさから逃げようとはしなかった。湯気の向こうで、二人のあいだに甘い沈黙がゆるやかに流れていく。
やがて、湯呑みを傾けていた信が、思い出したようにぽつりとこぼした。
「魔功波なんて凄いものができちゃったら、なんだか欲が出てきちゃいましたよ。護身用に、本格的な格闘技とか体術を習いたいなーって」
「ふむ……」
カップから顔を上げたエルミニアは、思案げに顎へ指を添えた。
「この世界は何かと物騒じゃからのう。魔王軍やら聖皇国やらも、きな臭い動きを見せておる。お主が己の身を守る術を持つのは、決して悪いことではないわい」
それから彼女は、少しばかり得意げに口の端を上げた。
「格闘と体術の極みに至った知り合いに、ツテがないでもない。なんなら当たってみるぞい」
「えっ、本当ですか! ……あ、でも!」
喜色を浮かべた信の顔が、次の瞬間、はっとしたように強張った。彼はテーブル越しに身を乗り出すと、エルミニアの両手を、その大きな掌でぎゅっと握りしめる。
「本気で修行するからって、エルミニアさんと何年も離れ離れになって会えないとか、そういうのは絶対に嫌ですからね!? 俺、エルミニアさんと毎日会えないなら、修行なんて行きませんから!」
握られた手の熱と、まっすぐすぎるその言葉に、エルミニアの心臓は、痛いほど大きく跳ね上がった。
(な……なんじゃ、こやつは。なんじゃ、この……嬉しさは……っ!)
顔から火が出そうになるのを必死にこらえながら、彼女はぷいと横を向いた。
「まったく、わがままな奴なのじゃ! ……わかった。わかったのじゃ」
そう言いつつ、彼女の胸の内では、まったく別の計算が、静かに、そして着々と進行していた。
(そもそも、ワシとてお主が目の届かぬ場所へ行くのは心配でならん。もしも修行先で、どこぞの女に言い寄られでもしたら……その時は、格闘家ごと世界を消し去らねばならんところじゃったわ)
二千年を生きてきた最強の魔女は、初めて芽生えたであろう…その感情に、まだわからないでいた。ただ、この男を誰にも渡したくないという想いだけが、深淵よりも深いところで、静かに根を張りはじめていた。
「そうじゃ、良いことを思いついたぞい」
顔を上げたエルミニアは、実に晴れやかな笑みを浮かべていた。
「その知り合いを、この骸森に拉致……ゴホン、招待してじゃな。我が家で通いの合宿でもさせればよいのじゃ。それならお主は毎日ワシの顔を見られるし、修行もできる。一石二鳥じゃろう?」
「さすがエルミニアさん、天才だ!」
「ふふん、もっと褒めるがよい」
もっとも、彼女の思惑の半分以上は、修行の効率などとは何の関係もなかった。この男を自分の結界の内側から一歩も出さずに済ませ、なおかつ余計な虫がつかぬよう見張っておくには、そうするほかないというだけの話である。
世界を揺るがす新発見をした夜だというのに、二人が真剣に検討していたのは、いかにして一日たりとも離れずに済ませるか、ただそれだけだった。
こうして、絶界の骸森の奥へ、とんでもない客人が招かれることになるのだが――それはまた、先の話である。
第十一話 了




