9話 いないはずの人
その記憶は、最初から“おかしかった”。
きっかけは、少し落ち着いたひまりの一言だった。
「それから少しして……病院、行ったよね」
その言葉に未華の動きが止まる。
「……いつの話?」
「夏の終わりくらい」
龍一の胸がざわつく。
思い出そうとする。
白い廊下。消毒液の匂い。
そして……眠る誰か。
でも、顔が浮かばない。
「行ってないよ」
未華が言う。
まただ……また即答する。
でも、今度は少し違う。
“言い聞かせている”ような声だった。
「行ったよ」
龍一が言う。
はっきりと。
「俺、仕事抜けて行った」
その瞬間、空気が張り詰める。
未華が、ゆっくりと龍一を見る。
「……いつ?」
「だから、夏の——」
言葉が止まる。
日付が出てこない。
あれだけはっきりしていたのに、細部が抜け落ちている。
「……誰の見舞いだったの?」
未華の問い。
答えようとして、龍一は黙る。
……誰だ?
そこにいたのは誰だった?
ベッドの上で静かに眠っていた“誰か”。
手を握った感触。
冷たくなっていく体温。
でも、顔が思い出せない。
「……思い出せないの?」
未華の声が、わずかに震える。
責めているわけじゃない。
怖がっている。
「……ひまり」
未華が言う。
「その日、お母さん何してた?」
ひまりが、ゆっくりと顔を上げる。
「……え?」
「一緒にいた?」
沈黙。
長い沈黙。
ひまりの目が、揺れる。
「……わかんない」
その答えが、一番重かった。
「え?」
龍一が思わず声を出す。
「一緒にいたでしょ?」
ひまりは、首を横に振る。
「……その日……ね」
小さな声。
「お父さんしかいなかった気がする」
空気が凍る。
「……どういう意味だよ」
龍一の声が低くなる。
ひまりは、困ったように眉を寄せる。
「だって……」
言葉を探している。
「ママのこと……思い出そうとすると」
息を吸う。
「顔が、ぼやけるの」
未華が固まる。
龍一の心臓が強く打つ。
「……やめて」
未華が、初めて強く言った。
「そういうの、やめて!」
ひまりがびくっとする。
でも、止まらない。
「だって本当だもん……!」
涙が溢れる。
「写真も、少ないし……」
龍一が、はっとする。
スマートフォンを取り出す。
家族のアルバムを開く。
スクロールする。
ある。
写真はある。
でも——
「……少ない」
確かに、未華の写真だけ不自然に少ない。
いや……“抜けている”。
本来あるはずの時間が丸ごと消えている。
「そんなはずない」
未華が言う。
でも、その声には自信がない。
「だって私……ちゃんと……」
言葉が途切れる。
何を言おうとしたのか、
自分でもわからなくなっている顔。
龍一は、さらにスクロールする。
あるはずの記録を探す。
結婚式。
旅行。
誕生日。
ある。
でも、どこかがおかしい。
未華が写っている写真。
その中の何枚かで輪郭が少しだけ歪んでいる。
まるで“後から貼り付けた”みたいに。
「……なあ」
龍一が呟く。
「俺たち、本当に三人だったか?」
その言葉が、静かに刺さる。
未華が、大きく目を見開く。
「何言ってるの……?」
でも、否定しきれていない。
ひまりが小さく言う。
「……最初から、二人だった気がする」
龍一と、ひまり。
その言葉が現実を揺らす。
「やめて……」
未華の声が崩れる。
「私、ここにいるでしょ」
手を伸ばし、龍一の腕に触れる。
その感触は……確かにある。
ちゃんと温かい。
でも——
ほんの一瞬……消えた。
龍一の呼吸が止まる。
「……今」
言葉にならない。
未華の手が一瞬だけ“なかった”。
「ねえ」
ひまりが言う。
「病院でさ」
二人を見る。
「誰が寝てたの?」
答えが出ない。
でも、三人とも同時に思い浮かべる。
白いベッド。
静かな部屋。
そして——
“誰かがいなくなった日”。
でも、それが誰なのか……わからない。
龍一か、未華か。
それとも——
最初から、存在しなかった誰か。
部屋の中で記憶が崩れていく。
それでも、一つだけ残るものがある。
ひまりの声。
「……お願い」
涙でぐしゃぐしゃの顔で……言う。
「誰でもいいから……いなくならないで」
その願いだけが、確かだった。
それ以外は全部曖昧なのに。




