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最後  作者: ナオ


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7/12

7話 見えている世界

 今日は少し疲れているだけだと思った。


 仕事が長引いたし、雨も降っている。


 体が重いのは……そのせいだ。


 龍一(りゅういち)は、そう自分に言い聞かせた。


 なのに、どこかがおかしい。


 時計を見る。


 21時12分。


 視線を外してから、もう一度見る。


 21時12分秒針が、動いていない。


「……あれ」


 軽く叩いてみる。


 その瞬間に秒針が一気に進んだ。


 まるで、止まっていた時間を取り戻すみたいに。


「電池切れか……?」


 そう呟く。


 でも妙に引っかかった。


 さっきまで確かに“動いていた”気がする。


 いや……


 そもそも——


 自分は、いつ帰ってきた?


 玄関に立っていた感覚はある。


 「ただいま」と言った記憶もある。


 でも、ドアを開けた感覚がない。


「……なんだこれ」


 小さく笑う。


 疲れてるだけだ、そうに決まってる。


 リビングを見た。


 未華とひまりがいる。


 その光景に少しだけ安心する。


 ちゃんと、ここに帰ってきている。


 それでいいはずだ。


「ご飯できてるよ」


 未華が言う。


「ああ」


 返事をする。


 でも、その声が自分の耳に届くまで、ほんの少し時間がかかった気がした。


 違和感。


 でも気にするほどじゃない。


 テーブルにつく。


 箸を持つ。


 味噌汁に手を伸ばす。


 その時ふと気づく。


 湯気が揺れていない。


 止まっている?


 そうじゃない、“遅れている”。


 自分が動いた後から、追いかけてくるように揺れる。


 龍一は手を止めた。


 何だこれ。


 視界が、現実と少しズレている。


 まるで映像を少し遅れて見ているみたいな。


「お父さん」


 ひまりの声。


「ん?」


 顔を上げる。


 ひまりが、じっとこちらを見ている。


 その目が妙に真剣で少しだけ怖かった。


「……ほんとにお父さん?」


 一瞬、意味がわからなかった。


「何言ってるんだ」


 笑って返す。


 でも、ひまりは笑わない。


「だって」


 言いかけて……やめる。


 未華が静かにひまりの肩に手を置いた。


「ひまり」


 その声も少しだけ低かった。


 何かを隠すような、押さえ込むような声。


 龍一は眉をひそめる。


「どうしたんだよ、二人とも」


 沈黙。


 その沈黙がやけに長く感じる。


 いや……本当に長いのかもしれない。


 時間の感覚がおかしい。


 龍一は、ふと立ち上がった。


「ちょっと外、見てくる」


 理由は自分でもわからない。


 でも、このままここにいると何か決定的なことに気づいてしまいそうだった。


 玄関へ向かう。


 ドアに手をかける。


 冷たい。


 冷たすぎる。


 まるで外と内の境界じゃなくて別の何かの境界みたいに。


 ゆっくりと開ける。


 雨が降っている。


 見慣れた景色。


 なのに、どこか違う。


 音が遠い。


 雨の音が遅れて聞こえる。


 龍一は、一歩外に出た。


 その瞬間……強い違和感に襲われる。


 軽い。


 体が、やけに軽い。


 足元を見る。


 水たまり。


 そこにはもちろん、自分が映っている。


 はずだった。


「……え」


 映っていない。


 そんなはずは無い。


 正確には——


 少し遅れて“現れた”。


 ワンテンポ遅れて自分の姿が水面に浮かぶ。


 龍一の呼吸が止まる。


「えっ?……なんだよ……これ……」


 その時、後ろから声がした。


「龍一」


 未華の声。


 振り返るとそこに、未華とひまりが立っている。


 でも、どこかおかしい。


 輪郭(りんかく)が少しだけ曖昧だ。


 まるで現実じゃなくて記憶の中の人みたいに。


「……お前ら」


 言葉が出ない。


 どっちだ。


 どっちがおかしい。


 自分か、あいつらか。


 ひまりが小さく言った。


「ねえ……お母さん」


 その声が震えている。


「どっちが本物なの?」


 世界が……一瞬止まった気がした。


 龍一は、何も言えなかった。


 未華も答えられない。


 ただ、三人の間に見えない境界がある。


 触れられるのに完全には重ならない距離。


 その中で龍一は初めて思った。


 もしかして——


 自分の方が“ズレている”のか?


 でも、それを認めた瞬間に何かが終わる気がした。


 だから考えるのをやめた。


 ただ、ひまりの手を取る。


 確かにそこにある。


 温かい。


 ちゃんと……ある。


 それでいい。


 それだけでいい。


 そう思った。


 でも、その手のぬくもりがほんの一瞬だけ消えた気がした。

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