5話 手のぬくもり
お父さんの手は少しだけ冷たくなった。
前はもっともっと、暖かった気がするのに。
ひまりはそう思いながらも小さな手で父の指をぎゅっと握った。
離したくなかった。
理由はわからないけど、離したら何かが消えてしまう気がした。
雨が降っている。
コンビニの光が濡れた地面に揺れている。
その中でお父さんは少しだけ遠くにいるみたいに見えた。
「ひまり、寒くないか」
そう言ってくれる声は、いつも通りなのに。
どこかが違う。
「うん、大丈夫」
そう答えながら、ひまりは嘘をついた。
本当は寒い。
でもそれよりも怖いのは、お父さんの手が少しずつわからなくなっていく事だった。
昔のことを思い出そうとする。
お父さんと手をつないで歩いた帰り道。
公園、夜のコンビニ。
どれも大事なはずなのに、ひとつひとつが、ぼやけていく。
おかしい……昨日の事なのに。
さっきの事なのに。
「お父さん」
「ん?」
「……なんでもない」
本当は聞きたかった。
どうして、少し遠くにいるの?
どうして、手がこんなに冷たいの?
どうして少しずつ、いなくなってるみたいなの?
でも、聞いたら本当にそうなってしまいそうで言えなかった。
代わりにぎゅっと手を握る……強く……もっと強く。
「ひまり?」
「……離さないで」
気づいたら声が震えていた。
お父さんは少しだけ驚いた顔をしてたけど、それからは優しく笑った。
「離さないよ」
その言葉に、ひまりは少しだけ安心する。
でも同時に、なぜか涙が出そうになる。
お父さんの手は、ちゃんとここにあるのにどうしてだろう。
どうしてこんなに悲しい気持ちになるんだろう。
コンビニの光が、また揺れた。
その瞬間ひまりの中で、何かがはっきりした。
これは今じゃない。
これはきっと、思い出だ。
でも……誰の?
ひまりは、お父さんの手を見た。
少しだけ透けている気がした。
「お父さん……?」
呼んでも返事が少し遅れて返ってくる。
「どうした?」
その“間”が、ひまりには、どうしても怖かった。
時間がずれているみたいだった。
ここにいるのに、ちゃんとここにいないみたいな。
ひまりは、強く目を閉じた。
忘れたくない。
忘れたくない。
忘れたくない。
心の中で、何度も繰り返す。
すると、遠くから声がした。
——ひまり
優しい声。
でも、それは今隣にいるお父さんの声じゃない。
もっと遠くて、もっと静かで、もう届かないはずの声。
ひまりは、ゆっくり目を開けるとそこには、いつものお父さんがいた。
でも、ひまりは知ってしまった。
この時間は、ずっとは続かない事を……この手も、この声も、この場所も。
全部「最後」になる。
だから、ひまりはもう一度、手を握る。
今度は、さっきよりも優しく。
「……だいすき」
小さな声で、そう言った。
お父さんは、一瞬だけ言葉を失った。
それから少しだけ困ったように笑った。
「急にどうした」
その言葉が、なぜか少しだけ遠く聞こえてる気がしたけど……それでもいいって、ひまりは思った。
たとえこれが、消えてしまう記憶でも。
ちゃんと覚えてるよ、この手のぬくもりを。
この時間も、お父さんのことも。
絶対に忘れないって、そう思った瞬間、世界が、少しだけ滲んだ。




