4話 約束
夜は静かだった。
ひまりの部屋の前を通ると、かすかな寝息が聞こえる。
当たり前だが、規則的で小さな音。
その音に、ほんの少しだけ安心する。
リビングに戻ると未華がソファに座っていた。
テレビはついているが見ている様子はない。
「まだ起きてたの?」
「うん、ちょっとだけ」
その声は、いつもより少しだけ低かった。
龍一は少し迷ってから向かいに腰を下ろす。
しばらく、会話はなかった。
テレビの音だけが部屋に流れているが耳には入っていない。
「ねえ」
未華が、ぽつりと言う。
「ん?」
「今日さ……コンビニで、何か思い出さなかった?」
胸の奥が、わずかに揺れるのをなぜか感じた。
「……いや」
本当かどうか自分でも分からない。
未華は、しばらく黙っていた。
それから小さく息をつく。
「……そっか」
その一言が、やけに重かった。
「なあ、何なんだよ」
思わず聞くが、聞き方は少しイライラしてしまっていた。
「さっきから、変だぞ」
未華は視線を落としたまま指先を軽く組む。
少しだけ迷っている様にも龍一には見えた。
それでも……ゆっくりと口を開く。
「……覚えてないんだね」
その言葉に心臓が強く打つ。
「だから、何を——」
「——あの日のこと」
言葉が途中で止まる。
“あの日”。
その言い方だけで、何かが引っかかる。
でも、思い出せない。
「……いつだよ」
弱々しくも、ようやく絞り出した声。
未華は顔を上げるとその目は、まっすぐ龍一を見ていた。
「一週間前」
その瞬間。
世界が、わずかに揺れた気がした。
……一週間前。
そんな最近のことを、忘れるはずがない。
なのに、何も浮かばない。
「嘘だろ……」
無意識に、そうこぼれる。
「ひまりと、三人で行った時だよ」
未華の声は、静かだった。
「ひまりがアイス食べたいって……だから三人でコンビニ行った」
頭の奥が、じわりと熱くなる。
断片が、浮かぶ。
夜、白い光、レジの音。
それだけ?
続きがない。
「……それで?」
自分でも驚くほど、乾いた声だった。
未華は、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
そして。
「……約束、したでしょ」
その言葉が胸に刺さる。
「約束……?」
知らないはずなのに、なぜか怖かった。
聞いてはいけない気がした。
未華は、少しだけ笑う。
でも、その笑顔はどこか壊れそうだった。
「ひまりと」
その名前が出た瞬間、龍一の頭の奥で、何かが弾ける。
小さな手と笑い声と夜のコンビニ。
「パパ、約束ね!」
——声が、聞こえた気がした。
「……っ」
思わず、頭を押さえる。
痛みはない。
でも。
思い出せそうで、思い出せない。
手を伸ばせば届きそうなのに、届かない。
「何を……約束したんだよ……」
絞り出すように言う。
未華は答えない。
ただ、じっとこちらを見ている。
その目には、期待と、諦めと、少しの恐怖が混ざっていた。
「……無理に思い出さなくていい」
そう言う声は、優しかった。
でも。
どこか突き放すようでもあった。
「でもね」
一拍、置く。
「忘れちゃいけないことだったよ」
その言葉が静かに落ちる。
龍一は、何も言えなかった。
頭の中は空白のまま。
それなのに、それなのに胸だけが苦しい。
理由の分からない痛みはとても感じている。
未華は立ち上がる。
「もう寝るね」
振り返らず、それだけ言う。
その背中が、とても遠く感じた。
龍一は動けなかった。
ただ、ソファに座ったまま。
残された言葉だけが頭の中で繰り返される。
——約束
——忘れちゃいけないこと
目を閉じると暗闇の中で、断片が浮かぶ。
夜のコンビニ。
白い光。
小さな手。
そして。
何か、大事なものを握っていた気がする。
それが何なのかは分からない。
ただ。
それを手放した瞬間があった気がする。
強く、胸が締め付けられる。
理由は分からない。
でも。
それが“間違いだった”事だけ、はっきりと分かった。




