3話 温度
玄関の扉を開けると、夕飯の匂いがした。
どこか懐かしい匂いで、醤油と少し甘い香り。
「ただいま」
靴を脱ぎながら言う。
「おかえり」
キッチンから未華の声が返ってくる。
いつもと同じやり取りで変わらないはずの日常。
リビングに入るとテレビの音が流れていた。
ソファの上には、ひまりのランドセルが置かれている。
「ひまりは?」
「もうすぐ帰ってくると思うよ。さっきまで友達と遊んでたみたい」
「そうか」
それだけ言って、龍一は椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、湯気の立つ料理が並んでいる。
味噌汁、焼き魚、小鉢がいくつか。
見慣れた食卓……なのに。
ほんの少しだけ違和感がある。
何が違うのかは分からない。
ただ、どこか“しっくりこない”。
「今日、遅かったね」
未華が振り向かずに言う。
「ああ、ちょっと仕事が長引いてな」
「ふーん」
それ以上は聞いてこない。
その距離感が、なぜだか少しだけありがたかった。
しばらくして、玄関のドアを勢いよく開く音がした。
「ただいまー!」
ひまりの声。
軽くて、明るい声。
「おかえり」
龍一は自然にそう言った。
手を洗う音が聞こえた後に、ひまりがリビングに入ってくるとそのままテーブルに近づく。
「今日ね——」
楽しそうに話し始める。
学校のこと、友達のこと、どうでもいいような、でもひまりには大事な話。
龍一はそれを聞きながらうなずく。
「ああ」
「へえ」
短く返す。
それでいいと思っていたし、いつも通りだと思っていた。
でも。
ひまりの話が途中で止まる。
「……パパ?」
その声にわずかな違和感が混じる。
「ん?」
顔を上げるとひまりが、じっとこちらを見ている。
「今日、なんか変」
まっすぐな言葉だった。
それを聞いて思わず言葉に詰まる。
「……そうか?」
自分では分からない。
いつも通りのつもりだった。
「うん。なんか、ぼーっとしてる」
未華がふと手を止める。
空気が少しだけ変わる。
「疲れてるんじゃない?」
未華が静かに言う。
「最近忙しいし」
「……ああ」
それに乗るように龍一はうなずく。
それが一番この時の、楽な答えだった。
夕食が出来上がり、箸を持ち……いつも通り食べる。
味も分かるし、美味いとも思う。
なのに。
どこか遠い。
目の前に家族がいる。
声も聞こえる。
触れれば、ちゃんとそこにいる。
……それなのに。
まるで、ガラス越しに見ているような感覚。
「ねえ」
未華の声。
「ん?」
「今日、コンビニ行った?」
その一言で、手が止まる。
なぜ、その話になるのか分からない。
「……ああ、昼に寄った」
「そっか」
未華はそれ以上、何も言わない。
でも、その“言わなさ”が引っかかる。
「どうかしたか?」
聞いてみるが、未華は少しだけ考えてから首を振る。
「ううん。なんでもない」
笑う。
いつもの、柔らかい笑顔。
でも。
どこか、少しだけ無理をしているように見えた。
食事が終わる。
ひまりは風呂に入り、先に部屋へ行く。
リビングには、龍一と未華だけが残る。
テレビの音だけが流れる。
「ねえ」
未華が小さく呼ぶ。
「ん?」
「……覚えてる?」
その言葉に胸がざわつく。
「何をだ?」
未華は、少しだけ迷うように視線を落とす。
そして。
「……ううん。やっぱりいい」
そう言って、立ち上がるとキッチンへ向かう。
その背中が、やけに遠く感じた。
龍一は何も言えなかった。
言葉が、出てこなかった。
何かを聞かなければいけない気がした。
でも。
何を聞けばいいのか分からなかった。
ただ。
胸の奥に、ひとつだけ確かな感覚が残る。
——何かを、忘れている。
それが何なのかは、思い出せない。
思い出してはいけないもののような気もする。
テレビの音が、やけに大きく響く気もした。
龍一は、何も言わずに画面を見続けているが、そこに映っている内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。




