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最後  作者: ナオ


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3/12

3話 温度

 玄関の扉を開けると、夕飯の匂いがした。


 どこか懐かしい匂いで、醤油と少し甘い香り。


「ただいま」


 靴を脱ぎながら言う。


「おかえり」


 キッチンから未華(みか)の声が返ってくる。


 いつもと同じやり取りで変わらないはずの日常。


 リビングに入るとテレビの音が流れていた。


 ソファの上には、ひまりのランドセルが置かれている。


「ひまりは?」


「もうすぐ帰ってくると思うよ。さっきまで友達と遊んでたみたい」


「そうか」


 それだけ言って、龍一は椅子に腰を下ろす。

 テーブルの上には、湯気の立つ料理が並んでいる。


 味噌汁、焼き魚、小鉢がいくつか。


 見慣れた食卓……なのに。


 ほんの少しだけ違和感がある。


 何が違うのかは分からない。


 ただ、どこか“しっくりこない”。


「今日、遅かったね」


 未華が振り向かずに言う。


「ああ、ちょっと仕事が長引いてな」


「ふーん」


 それ以上は聞いてこない。


 その距離感が、なぜだか少しだけありがたかった。


 しばらくして、玄関のドアを勢いよく開く音がした。


「ただいまー!」


 ひまりの声。


 軽くて、明るい声。


「おかえり」


 龍一(りゅういち)は自然にそう言った。


 手を洗う音が聞こえた後に、ひまりがリビングに入ってくるとそのままテーブルに近づく。


「今日ね——」


 楽しそうに話し始める。


 学校のこと、友達のこと、どうでもいいような、でもひまりには大事な話。


 龍一はそれを聞きながらうなずく。


「ああ」


「へえ」


 短く返す。


 それでいいと思っていたし、いつも通りだと思っていた。


 でも。


 ひまりの話が途中で止まる。


「……パパ?」


 その声にわずかな違和感が混じる。


「ん?」


 顔を上げるとひまりが、じっとこちらを見ている。


「今日、なんか変」


 まっすぐな言葉だった。


 それを聞いて思わず言葉に詰まる。


「……そうか?」


 自分では分からない。


 いつも通りのつもりだった。


「うん。なんか、ぼーっとしてる」


 未華がふと手を止める。


 空気が少しだけ変わる。


「疲れてるんじゃない?」


 未華が静かに言う。


「最近忙しいし」


「……ああ」


 それに乗るように龍一はうなずく。


 それが一番この時の、楽な答えだった。


 夕食が出来上がり、箸を持ち……いつも通り食べる。


 味も分かるし、美味いとも思う。


 なのに。


 どこか遠い。


 目の前に家族がいる。


 声も聞こえる。


 触れれば、ちゃんとそこにいる。


 ……それなのに。


 まるで、ガラス越しに見ているような感覚。


「ねえ」


 未華の声。


「ん?」


「今日、コンビニ行った?」


 その一言で、手が止まる。


 なぜ、その話になるのか分からない。


「……ああ、昼に寄った」


「そっか」


 未華はそれ以上、何も言わない。


 でも、その“言わなさ”が引っかかる。


「どうかしたか?」


 聞いてみるが、未華は少しだけ考えてから首を振る。


「ううん。なんでもない」


 笑う。


 いつもの、柔らかい笑顔。


 でも。


 どこか、少しだけ無理をしているように見えた。


 食事が終わる。


 ひまりは風呂に入り、先に部屋へ行く。


 リビングには、龍一と未華だけが残る。


 テレビの音だけが流れる。


「ねえ」


 未華が小さく呼ぶ。


「ん?」


「……覚えてる?」


 その言葉に胸がざわつく。


「何をだ?」


 未華は、少しだけ迷うように視線を落とす。


 そして。


「……ううん。やっぱりいい」


 そう言って、立ち上がるとキッチンへ向かう。


 その背中が、やけに遠く感じた。


 龍一は何も言えなかった。


 言葉が、出てこなかった。


 何かを聞かなければいけない気がした。


 でも。


 何を聞けばいいのか分からなかった。


 ただ。


 胸の奥に、ひとつだけ確かな感覚が残る。


 ——何かを、忘れている。


 それが何なのかは、思い出せない。


 思い出してはいけないもののような気もする。


 テレビの音が、やけに大きく響く気もした。


 龍一は、何も言わずに画面を見続けているが、そこに映っている内容は、ほとんど頭に入ってこなかった。

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