2話 点検
朝の空気はまだ少し冷たかった。
現場に着くと龍一は無言で車を降りる。
工具箱を取り出し、肩にかけた。
それだけで体が勝手に仕事の動きに切り替わる。
「おはようございます」
先に来ていた同僚が軽く頭を下げる。
「ああ、おはよう」
短く返す。
今日の現場は駅前の雑居ビルだった。
一階にはコンビニが入っていて、上の階には事務所やテナントがいくつか入っている、ごく普通の建物だ。
「じゃあ、いつも通りで」
同僚がチェック表を見ながら言う。
龍一はうなずく。
点検は順番が決まっている。
決められた場所を決められた通りに確認するといった異常がないかを見るだけの仕事だ。
非常灯、異常なし、消火器、期限内、分電盤も異常なし。
1つ1つ、淡々と確認していく。
機械室に入ると低い音が響いている一定のリズムで回るモーター音は、耳に馴染んだ音だ。
その音を聞いていると、なんでか安心する。
「……正常」
小さくつぶやく。
異常はない、いつも通りだ。
……それなのに。
ふと、手が止まる。
今、何を確認していた?
チェック表を見るが、項目はちゃんと埋まっているから問題はない。
それでも、わずかな引っかかりが残る。
「どうしました?」
同僚が声をかけてくる。
「いや……なんでもない」
そう言って作業に戻る。
だが、さっきの感覚が消えない。
何かがズレている気がしても理由は分からない。
機械室を出て階段を降りる。
一階に近づくにつれて少しずつ別の音が混ざってくる。
自動ドアの開く音、レジの電子音、人の話し声。
それはコンビニの音だ。
その瞬間……胸の奥がざわつく。
——ピッ
レジの音が、やけに大きく聞こえた。
足が、わずかに止まる。
夜の光、白い蛍光灯、冷たい空気。
断片が、また浮かぶ。
だが、それ以上は続かない。
「……っ」
無意識に息が詰まる。
「戸張さん?」
呼ばれて我に返る。
「ああ、悪い」
軽く手を上げてごまかした。
一階に降りるとコンビニの前を通る。
ガラス越しに中が見える、昼間の光に照らされた店内。
客が数人いて店員がレジに立っている。
ただの、いつもの光景。
それなのに……視線が、そこから離れない。
「昼、ここでいいっすか?」
同僚が言う。
龍一は少しだけ間を置いて、うなずく。
「ああ……そうだな」
自動ドアが開く。
——いらっしゃいませ
機械的な声と共に冷たい空気が流れてくる。
中に入った瞬間、一瞬だけ強い違和感に襲われる。
ここには来たことがある。
それは間違いない。
……でも。
いつ来たのかが分からない。
棚に並ぶ商品を、なんとなく眺める。
弁当、飲み物、菓子はどれも見慣れているはずなのに、どこか現実味がない。
開いた冷蔵ケースの前で立ち止まり冷気が顔に当たる。
その冷たさに、なぜか少しだけ安心する。
「決まりました?」
同僚の声。
「ああ……適当でいい」
適当に弁当を取る。
本当に食べたいものかどうかも、よく分からない。
レジに並ぶ。
——ピッ
また、あの音。
一瞬だけ、時間が引き伸ばされたように感じる。
夜。
同じ音と同じ光だ。
隣に誰かがいた気がする。
「だれだ?」
小さな影。
それしかわからない。
「……戸張さん?」
気づくと会計が止まっていた。
「すみません」
店員に軽く頭を下げて支払いを済ませ、袋を受け取る。
その時、指先にわずかな温もりを感じた。
一瞬だけ。
すぐに消えた。
外に出ると昼の光が、やけにまぶしい。
さっきまでの白い光とは違う。
それなのに、なぜかどちらも同じもののように感じる。
空を見上げる。
「……問題なし……だよな」
小さくつぶやく。
仕事は何も問題なかったし、いつも通りだ。
でも。
本当にそうなのかは、もう自分でも分からなかった。




