第9章 初めての魔法と灰色の子犬
小さなテントに連れ帰り、マリアがそっとその子犬を布を敷いた床に降ろした。
「痛いの痛いの、飛んでいけ。え、アンナ、見て」
マリアが心配そうに傷だらけの子犬へそっと小さな手をかざす。次の瞬間、不思議なことが起きた。子犬の体が淡い金色の光に包まれた。光はまるで意志を持った生き物のように、子犬の体の中に静かに吸い込まれていった。そして光がすっと収まったとき、子犬の痛々しい傷が嘘のように跡形もなくすべて治っていた。
「よかったね」
マリアが微笑んで柔らかな背中をなでると、子犬はうれしそうに短い尻尾を振る。
「もう大丈夫だよ。お怪我は治ったから、森にお帰り」
マリアがそう言って戸口を指さして見せた。子犬は不思議そうに小首をかしげるだけで、まったく動こうとしない。それどころか、マリアの足元にくっついたまま離れる気配すらない。
それからは、マリアの後をどこに行くのにもついて歩くようになった。外で畑の作業をするときも、川に水汲みに行くときも一緒だ。夜、眠るときは、マリアの足元で丸くなっている。
ある日、マリアが川のそばで洗濯物を洗っていると、子犬は楽しそうに浅瀬に入っていき、水遊びを始めた。
「こら、濡れちゃうよ」
マリアが笑いながら見ていると、冷たい川の水で全身の泥汚れをきれいに洗い流した。これまで薄汚れた灰色に見えていた毛並みが、みるみるうちに光り輝くような美しい白銀の色へと変わっていく。
「きれい」
子犬はブルブルと盛大に水を弾き飛ばす。そして、マリアの足元にふさふさの毛で戻ってきた。
小屋に戻ってきた一人と一匹の姿を見て、アンナは開いた口が塞がらない。ただの子犬どころではなかったのだ。
(嘘、これは。白銀の毛並みに、透き通るような赤い目)
アンナの頭の中に、母から幼い頃に聞いた絵本や伝説の記憶が鮮やかに蘇る。禁忌の森の主であり、神の使いとも称される伝説の魔獣フェンリルの幼体の姿だった。アンナはあまりの衝撃と神々しさに、しばらくの間、言葉を失って立ち尽くした。
アンナの驚きなど露知らず、マリアは嬉しそうに真っ白な子犬を抱き上げながら言った。
「お姉さん。この子犬ね、全然離れてくれないの。飼ってはダメかな。私、名前も決めているの。ヴァイスって言うのはどうかな」
マリアが。
「ヴァイス」
名前を呼ぶ。白銀の子犬は返事をするかのように。
「ワン」
ひと声吠えて、マリアの頬をペロリと舐めた。
アンナは冷や汗を流しながら、満面の笑みを浮かべるマリアと伝説の魔獣を、交互に見つめた。
(伝説の魔獣を子犬として飼うなんて、世界中で私たちくらいよ。でも、こんなに懐いているし)
アンナはゴクリと唾を飲み込んでから、真剣な表情でマリアに向き合った。
「マリア様。いいですが、ちゃんと自分の手でお世話をできると約束できますか」
「うん。約束する。お姉さん、ありがとう」
マリアが満面の笑みでギュッと抱きつく。ヴァイスと呼ばれた白銀の子犬も。
「ワン」
誇らしげに鳴いた。マリアの家族として最強の魔獣が迎え入れられたのだった。
その様子を、すぐ近くの木の上から、森の精霊たちがヒソヒソ声で見守っている。
「フェンリル、すっかり子犬のふりをして居ついちゃったよ」
「あの子にすっかりメロメロだね」
「あんなに強いフェンリルが側にいれば、この森で傷つくことなんて何もないね」




