第8章 畑づくりと森の仲間
翌朝。
「マリア様、おはよう。家の周りの雑草を少し抜いて整えましょうか。そして、小さな畑を作りませんか」
朝の澄んだ空気が満ちる中、アンナが昨日作ったばかりの道具を手に立ち上がった。マリアは不思議そうに小首をかしげる。
「お姉さん、畑を作って何をするの」
「薬草と木の実の種を植えるんです。この先、熱や怪我で薬草が必要になるかもしれないし、種が新しく育ってくれれば、また食べられる実ができるかもしれませんからね」
アンナが周りを見回すと、すぐ近くには昨日の小川がサラサラと心地よい音を立てて流れている。
「それに、水場になる川も近いことですし、ここで育てられたらすごく便利だと思って」
マリアは目を丸くして驚き、嬉しそうにパッと満面の笑みを浮かべた。
「お姉さん、すごくいい。私も手伝うよ」
マリアは、スコップ代わりの削った平たい木の板を小さな手に持ち、一生懸命に柔らかい土を掘り返して耕し始める。アンナは、愛おしそうに目を細めてマリアを見ていた。
「マリア様は、ほんとに頑張り屋さんですね」
二人の明るい笑い声が、緑に囲まれた小さな広場に楽しく響き渡っていた。
二人が自分たちの手で畑を耕し、森の中でささやかで穏やかな日常を築いていた頃。森の深淵で、目に見えない者たちがひそひそとお喋りを始めていた。
「聞いた。あの子が来たよ」
「私たちの加護を授かるはずの、あの小さな子がね」
「まだ自分の力に気づいていないみたいだね」
「もう少しお手伝いしてあげよう。畑の草を早く大きくしてあげて、すぐに食べられるようにしようよ」
「心地いい風も吹かせてあげよう」
「夜でもあの家の中が少し明るくなるように、優しい光で照らしてあげようね」
森の木々が嬉しそうに葉を揺らしてざわめき、見えない精霊たちがささやかな小屋を愛おしそうに包み込んでいく。穏やかな空気に緊張感が走った。
「ちょっと、フェンリルがあの子に気づいたよ」
「本当だ、最強の魔獣フェンリルが」
「待って、襲う気配じゃないよ」
「むしろあの子を守るつもりみたいだね」
そんな森の精霊たちのひそひそ声が葉擦れの音に紛れて響く中、その出来事は訪れた。
ある日のこと。マリアがアンナと一緒に作った畑の様子を見ていたとき、一匹の小さな生き物が深い茂みの奥から、ずるずると地を這うようにして近づいてきた。
マリアは、振り返って思わず息を呑んだ。そこにいたのは、薄汚れた灰色の毛並みをした子犬だ。あちこちに痛々しい切り傷を負っていた。けれど、マリアと同じ、深い赤い色をした瞳はどこか神秘的で美しい。
「おいで、怪我をしているのね。痛かったね、」
マリアは恐がる様子など微塵も見せずに、すぐに駆け寄る。子犬の震える小さな体をそっと優しく抱きしめた。警戒心が強いはずの薄汚れた子犬はふしぎなことに、胸の中でピタリと身じろぎもせずじっと収まっている。
「お姉さん。この子犬、お家に連れて入ってはだめかな」
マリアが上を見上げて、潤んだ瞳でおねだりするように尋ねる。アンナは姿を見て絶句し、思わず言葉に詰まった。
(あれは、どう見ても普通の犬じゃない。鋭い爪、禍々しい雰囲気を持つ灰色の毛並み。伝説の魔獣の一種じゃ)
頭の中で危険かもしれないという理性が激しく警鐘を鳴らす。しかし、マリアのあまりにも純粋な優しさと、小さな命に向ける慈愛の表情を見ていると、だめだと突き放すことなどとてもできなかった。
「はい。マリア様がそこまで言うならいいですよ」
アンナは苦笑いしながらも、そっと許可を出した。だがこのとき、マリアもアンナもまだ知らなかった。この薄汚れた灰色の赤い目の子犬の正体を。




