第24章 皇太子殿下大祝賀会②
大祝賀会は、皇帝の力強い挨拶を皮切りに華やかに幕を開けた。
高位貴族たちは、宮廷楽団が奏でる優雅な音楽と芳醇なワインの甘い香りが広大な空間を満たす中、次々とマリアとアンナの特等席へと列をなしてやってきた。
「この度はエドワード皇太子殿下をお救いいただき、本当にありがとうございます。お二人は我が帝国の恩人でございます」
「あなた様のような素晴らしいお方に巡り合えたこと、帝国の一員として心より感謝申し上げます」
「いえ、私たちはただ、できることをしただけで」
マリアが少し照れくさそうに身を縮めると、隣のアンナが微笑みながらフォローを入れる。
「お気遣い痛み入ります。殿下がお健やかになられたこと、私共も嬉しく思っておりますわ」
貴族たちは口々に深々と頭を下げ、惜しみない賛辞と感謝を述べた。アンナは失礼のないよう丁寧に対応し、マリアも小さく会釈を返していた。
その時だった。一人の初老の貴族が、群衆をかき分けるようにして近づいてきた。彼は一見すると丁寧な笑みを浮かべ、恭しく一礼する。
「マリア殿とアンナ殿とお見受けする。私は西の領地を治める伯爵。この度の類まれなるご功績、感服いたしました。どうか今後とも、我が家門と良きよしみを結んでいただきたい」
口調こそ丁寧だったが、その瞬間、マリアの足元にいたヴァイスはふっと低い唸り声を漏らし、背中の白い毛を逆立てた。ディーネも小さな水泡の中でぷるると水色の体を震わせ、全身の警戒色を強めてピリピリと張り詰めた気配を放つ。
(この人、変だ。それに、この嫌な感じは)
マリアは思わず息を呑んでその男を見つめた。驚いたことに、他者には見えないはずのドロドロとした黒い闇の瘴気のようなもので、貴族の全身が包まれているのが視界の端にはっきりと映った。エドワードの体にねっとりと巣食っていた恐ろしい呪いの澱みと全く同じ不吉な気配が、紳士のための上質な装いの衣服から立ち上っているのだ。
「では、ごゆるりと」
男はそう言って不気味な笑みを残し、その場を去っていった。奥にある冷ややかな瞳の底には、隠しきれない探りと底知れぬ企みが潜んでいた。
ヴァイスは。
「グルル」
小さく喉を鳴らし続け、ディーネも落ち着かない様子でマリアの頬にすり寄ってくる。そのとき、アリアーヌが心配そうに様子を見にきて、マリアたちの近くに歩み寄ってきた。
「マリア殿、お疲れではありませんか。たくさんの方がご挨拶にいらして、少し息が詰まりますわよね」
「アリアーヌ様。それは大丈夫なのですが」
「どうかされましたか。先ほどの方を見てから、少し顔色が悪いようですが」
マリアは、目の前の華やかな祝宴の光景と、さっきの男から感じた邪悪な闇のギャップに戸惑いながら、思わず尋ねてしまった。
「いま挨拶にいらしたあの方はどなたですか。それと少し気になったのですが、あの方、ひどく淀んだ黒い闇に包まれているように見えるのです」
純粋な疑問からこぼれたその言葉は、周囲の空気を一瞬で凍りつかせた。アリアーヌは小さく息を呑み、血の気が引いたように青ざめる。
「今の方は、有力な伯爵家の当主です。マリア殿、黒い闇とは、まさかエドワードお兄様の呪いと何か関係があるように見えますか」
「はい。殿下を苦しめていたものと、そっくり同じ気配がしました」
ただならぬ気配を直感で察知したアリアーヌは、震える手でドレスのスカートの裾を握りしめると、すぐ近くで歓談していた母である皇后のもとへと駆け寄り、慌てて耳打ちをした。
「お母様。大変です。マリア様が、先ほどの伯爵について呪いの黒い闇に包まれていると仰ったのです」
「なんですって」
皇后は、その報告を聞いた瞬間、顔色を変えた。祝賀会の華やかな喧騒の裏で、宮廷の権力闘争と魔術の闇にまつわる恐ろしい秘密の糸が、音もなく手繰り寄せられようとしていた。
瞬時にただならぬ事態を察知した皇后は、すぐに表情を引き締め、広間の端に控えていた近衛兵長へと鋭く目配せを送る。それと同時に、皇帝の傍らへと静かに歩み寄り、その耳元へと囁いた。
「あなた。マリア殿が、先ほど挨拶に来た伯爵から黒い闇を感じ取られたそうです。エドワードの呪いと繋がっているかもしれません」
「まことか。あの男が」
皇帝は、鋭く瞳を光らせた。愛する我が子を死の淵まで追いやった元凶が、いまこの祝宴の場にのうのうと紛れ込んでいると知れば、激しい怒りが湧かないはずがない。しかし、ここは百花繚乱の貴族たちが集う大祝賀会だ。
「騒ぎを起こすな。裏から手を回せ」
皇帝は無用なパニックや混乱を避けるため、顔色一つ変えず、さりげなく軽く手を挙げた。それは、事前に命じておいた最高機密の厳戒態勢に基づく無言の合図だった。
近衛兵長は皇帝の合図を見ると、数名の屈強な近衛騎士たちに静かに指示を飛ばした。音もない影が、祝賀会の賑やかな音楽と貴族たちの笑い声に紛れ、何食わぬ顔で出口へ向かおうとしていた伯爵の背後に忍び寄った。
「失礼する、伯爵殿」
「何事かな。私はこれから別室で」
「少しお聞きしたいことがございます。騒がれぬよう、ご同行願おう」
「無礼な。私は伯爵の、むぐっ」
当主が声を荒らげようとした瞬間、近衛騎士たちは周囲の貴族たちに気づかれない絶妙な手際で彼の両脇をしっかりと固め、声帯を封じるように口元を塞いだ。そのまま皇宮の奥深い地下にある尋問室へと連れ去っていく。一連の動きはあまりにも自然で、誰一人として異変に気づく者はいなかった。
大広間では優雅な音楽が何事もなかったかのように流れ続け、華やかなパーティーは仮面をかぶったまま何食わぬ顔で続いていく。




