第16章 マリアの回想
マリアのまぶたの裏には、わずか5年前まで自分が囚われていた、いま思えば過労死寸前だった暗闇の日々という遠い過去の情景が浮かんだ。
7歳のあの日に魔力検査で無魔力という烙印を押された瞬間から一切の温もりを奪われた。侯爵家の使用人部屋すら追い出され、別邸の物置部屋に押し込められた。
マリアは、アンナが淹れてくれた野草茶をすすりながら当時の恨み言をポツリとこぼした。
「お姉さん、侯爵家の別邸の物置小屋のすきま風だらけの寒さと暗さを思い出すと、いまでも背筋が凍るわ。もらえるのは使用人たちが残したカチカチのパンくずや、ときには怪しい臭いを放つ謎の食べ物だけだったわ」
「マリア様は、7歳の時からずっと侯爵家の別邸の物置小屋に押し込められていたのでしたね」
アンナは、呆れたように肩をすくめた。
マリアは、大きく頷いて皇太子妃教育という名の、スパルタすぎる暗記地獄を思い出した。薄暗いランプの灯りだけを頼りに、分厚い歴史書や他国の言語から完璧な礼法まで頭に叩き込まれた。寒くて暗い部屋で、足の皮が剥けるまで一人でワルツを踊るダンス練習を強いられた。睡眠を削って完璧な教養と華麗なステップを身につけても褒められることはなく、少しでも手間取れば罵倒と体罰と絶食の理不尽な厳しい指導を味わわされた。
「私は、義妹のソフィアの便利なカンニングペーパーだったのよ」
「ソフィア様は、マリア様が血を吐く思いで脳に詰め込んだ知識を自分の聡明さとしてあっさりと横取りしていましたね」
「私は、聖女を作り上げるための便利な裏方だったのよ。だから大広間で追放を言い渡されたときはほっとしたのよ」
「マリア様は、皇太子殿下の得意げで冷酷な声も侯爵家の旦那様の視線もソフィア様のわざとらしすぎる涙も、三文芝居のように見ていましたね」
だからこそマリアは、あの一晩中の詰め込み勉強や不毛な一人ダンスからついに解放されるのだと、追放処分に心の底から安堵していた自分を思い返した。死の領域と恐れられる禁忌の森の空気でさえ、ガタガタ震える御者の様子とは裏腹にまるで憧れの地のように澄んで優しく感じられた。
「マリア様、温かいお茶が入りましたよ」
マリアは、アンナの優しく穏やかな声にゆっくりと目を開けた。
マリアの足元では、最強の魔獣へと成長したはずのヴァイスがただの巨大な飼い犬のようにだらしない顔でゴロゴロと喉を鳴らしている。
「ヴァイス、少しは薪になる太い枝でも拾ってきて痩せなさい」
ヴァイスは、マリアの言葉に図星を指されて気まずそうにスッと目を逸らした。
マリアの頬には、水の精霊ディーネがすりすりと冷たく心地よい体を擦り付けている。
「ありがとう、アンナ」
マリアは、淹れたての野草茶の香りに包まれながら満ち足りた微笑みを浮かべる。冷酷な人間たちからゴミのように捨てられ過酷な詰め込み教育の末にすべてを奪われたあの日があったものの、結果的にこの世界で一番温かくて豊かな本当の帰る場所を手に入れたのだと胸の奥でホクホクと噛み締めていた。




