34.動画の仕込みと、最後の追い込み
エヌは起き上がって着替えると、一階に降りた。
「おはよう、陽真」
「もう九時だぞ」
一階のリビングには祖母と――祖父がいた。
エヌは眉をひそめた。
今日は土曜日。本来なら土曜診療があるはずで、現役医師の祖父は、外来に出ているはずだった。
二人の心の声を【受信】する。
《幸一さんが、今日はお仕事をお休みしてくれてよかったわ。私じゃ、陽真の進路の相談には乗れないし》
《陽真と話す時間を作らねばな。――“兄”のことを昨日、伝えたのは動揺させてしまったか。しかし、どうせ心は読まれるしな》
エヌは祖父母を見つめた。
《この二人は、陽真のことを愛してる。母さんのことも愛してた》
エヌはこの二人のことは嫌いではなかった。
陽真に向けるような愛情をエヌに向けてくれたわけではなかったが、祖父はエヌを生かしてくれた。祖母はエヌを不憫に思ったのか、たびたび病室を訪れ、反応のないエヌの身体の横で絵本を読んでくれたことを覚えている。
憎んでいるのは、母親の真理愛だった。
《――こんな地獄みてぇな世界に》
自分は好き好んで陽真の背中に不完全な形でくっついて生まれたわけではなかった。
それでも、この世界に誕生してしまった。
無意識に祖父を動かし、名前もない状態で、生まれてしまった。
《勝手に産んでおいて》
《勝手に、消すんじゃねぇ》
五歳で再開して以来、母親が行動に移そうとするまでの三年間。
エヌは真理愛が、自分をこの世から消そうとする考えを大きくしていく様子を陽真の目を通して感じていた。
――そして、あの日。真理愛が“決行”しようとした日。
無意識に、陽真に向かって叫んでいた。
《助けて》
陽真は、とっさに階段を降りようとする母の背中へ手を伸ばした。
身体が先に動いたのだろう。
「兄ちゃんと仲良くして!」
……それが、陽真が叫んだ言葉だった。
陽真の手が真理愛の背中に触れるその瞬間に、エヌは陽真の意識と入れ替わっていた。
このままでは、真理愛は落下する。
陽真にそんなことをさせたくないと思ったからだ。
――最初は。
自分の意識が陽真の身体を完全に支配していると気づいたとき。
階段の下で頭を殴打し動かなくなった母親の真理愛を見下ろしながら。
エヌは、初めて得た自由に動かせる身体の感覚に、胸のときめきと高揚感を覚えていた。
陽真のことは、頭の隅から消えていた。
ただ、スキップするように階段を昇ったり降りたりしたことを覚えている。
――下には真理愛が倒れている状況で――
やがて異変に気付いた祖母が駆け付けた。
祖母は陽真を抱きしめて、「怖かったね」と何度も背中をさすった。
《お母さんが落ちるところを見たのね。驚いて、混乱してるんだわ》
祖母は倒れた母親に目もくれず、階段を昇ったり降りたりし続けるエヌを見て、そんなふうに心配し、心を痛めていた。
――そのとき、エヌは、自分と陽真の違いを決定的に意識した。
(俺は、陽真にはなれない)
陽真はエヌを守るために、真理愛を階段から突き落としてしまったのに。
(俺は、そんなことは忘れて、陽真の身体になったことを楽しんでいた)
――最初は、確かに陽真にそんなことをさせたくないという想いだったのに。
もう二度と、陽真の身体には入らない。
そう思ったけれど――、陽真はエヌに言ってくれた。
“兄ちゃん、一日おきに交代しようよ”
エヌの抱いた、陽真の身体になりたいという気持ちを感じ取った陽真はそう言ってくれた。
(俺は、陽真にはなれないし、なっちゃいけない)
そう考えれば考えるほど、苛々と誰に向けていいかわからない怒りはつのっていった。
(どうして、俺だけ、こんなふうに苦しんで、いなくならなきゃいけない)
いざ終わりが近づいてくると、そんなふうに考えた。
――だから、“悪人”を道連れにしてやろうと思った。
「爺ちゃん」
「なに?」
「――昨日、兄ちゃんの病室に行った時に、玲央くんの意識の気配を感じたんだ。――また、身体から離れてる」
祖父は椅子から立ち上がる勢いで顔を上げた。
祖父は、陽真としてふるまうエヌが、テレパスの能力を持っていることに気づいていた。
だから、玲央の意識が身体から離れてふらふらしていると気づいたときに、「意識を戻すのに力になれると思う」と提案したのだ。
院長権限で、人払いをし、病室に入れてもらい、玲央の意識に身体に戻って目を覚ますよう呼びかけるのを、ここ一年繰り返していた。
効果は数値にも出ていて、玲央の脳波が通常では考えられない回復を見せていると、祖父は喜んでいた。
「ここ三週間、俺、玲央くんを呼び戻すのやってなかったでしょ。――だから身体から意識が抜けてるみたいなんだ」
「――そうか」
眉間に皺を寄せる祖父に、エヌは声をかけた。
「だから、今日、玲央くんの病室に行かせてほしい」
「……」
祖父はじっとエヌを見つめた。
《――昨日の今日で、陽真が何を考えているのか、全くわからん》
《この陽真は……》
《いや……考えるのは、やめよう》
《……一理ある。玲央くんの様子を、今月はしっかり確認できていない》
「……わかった。食事を終えたら、病室に行こう」
◇
『久留米 玲央』と書かれた病室に入る。
「爺ちゃん、カーテンの向こうにいてくれる?」
《なぜ、いつもは横で見ているのに?》
疑問を浮かべた祖父に、エヌは笑いかけた。
「《なぜ、いつもは横で見ているのに?》って思ってるよね。……玲央の意識が遠くに行ってしまってるから、今日は集中して呼び戻したいんだ」
考えていることを言い当てられた祖父は、顔を強張らせた。
《……自分の考えたことを、そのまま言われると、驚くな》
それから息を吐いて、
「――頼むぞ」
そう言って、カーテンの向こうへと引っ込んだ。
エヌはベッドの上で動かない玲央の身体を見つめる。
――五歳の春に母親に浴槽に沈められた玲央は、三年間、意識が彷徨い続けている。
八歳になった身体は、細い手足ながら確実に成長しており、意識下の保育園児のままの玲央の姿と比べると、時の経過を感じさせた。
エヌは玲央の手を握って目を閉じた。
遠くで、ばしゃばしゃと水の中でもがいている玲央の意識を見つけた。
(また溺れてる)
エヌはぎゅっと玲央の手を握って、心で呼びかけた。
(ごめん。お前を目覚めさせるのに、間に合いそうにないよ。――だから)
スマホを起動すると、玲央に向かってカメラを向け、動画を撮った。
(お前をこんなふうにした女は、俺が一緒に地獄に引きずって行ってやるから)
入院中の患者を勝手に撮影することなど、もってのほかだ。
――自分がやっていることが、祖父への裏切りであることはわかっていた。
(けど、俺もういなくなるし)
エヌは動画を止めると、祖父を呼んだ。
「終わったよ。――遠くにいて、呼べなかった」
祖父はモニターの数値を見て、がっくりと肩を落とした。
《このままいけば、もしかしたら、意識が戻るかもと思っていたが、振り出しか……》
《かわいそうに……》
頼れる身内のいない玲央を受け入れ、必死に治療しようとしている祖父は、人格者だ。エヌはこの祖父を裏切ることに、ちくりと心が痛むのを感じた。
(病院の評判が落ちるかも。――ごめん、爺ちゃん。でも俺は)
玲央の母親と、自分の母親の姿が重なる。
(俺は、あいつを許せない)
◇
自宅に戻ったエヌに祖父が聞いた。
「お前、今日はどうするんだ」
《最近、トラブルばかりで……。あまり厳しく拘束したくはないが……》
エヌは祖父に『陽真の笑顔』で笑いかけた。
「昨日は心配かけてごめんね。……今日はずっと家にいるよ」
「その方が雅恵も安心する。私も診療は休んで家にいるから、相談事があればしろよ」
エヌは「ありがとう」とうなずくと、自室に戻って、パソコンを立ち上げた。
撮影した病室で眠る玲央の動画を読み込み、編集する。
――玲央の母親、久留米 理香を告発する動画を作るために。
【未だ意識不明なのに……鬼母、出所! 懲役三年って、法律おかしくね!?】
煽動的なタイトルサムネに、玲央の動画、隠し撮りした現在の久留米 理香の画像をくっつける。
浴槽で玲央を沈めた理香は、その場で救急と警察に通報、自首した。
『殺人未遂』で起訴されたが、夫の不倫により離婚、経済的に困窮していたこと。
すぐに自ら通報したことで、衝動的な犯行で反省が見られると減刑され、懲役三年の刑に処され、先日出所した。――現在は保護を受けながら、ひっそりと一人暮らしをしている。
久留米 理香の所在については、玲央の様子を見に来た役所の人間の心を読んで調べていた。――澪と出会って、“悪人狩り”を決めた時点で、理香だけは絶対に道連れにしてやると、エヌは誓っていた。
急ごしらえの動画を、投稿サイトにアップする。
すぐにアクセスとコメントがついた。
『本当に、これで三年って短すぎますよね』
《ひどい。自分も同じ目に遭えばいいのに》
『病室の隠し撮り? 家族?』
《でも痛々しい……。小さい子が本当に可哀想。ひどい親……》
集中すると、書き込みの裏にある思念が頭に流れ込んできた。
――澪の能力。電波の裏にある思念をライブで感じ取る。
澪と知り合って三週間、ずっと手をつないで、能力を使う中で、澪が【受信】能力を上げたように、エヌの力もまた、進化していた。
(もう、俺一人で、追い詰められる)
エヌは頭の中に浮かんだ澪の姿を消し去った。
(エムは巻き込まない方がいい。あいつは普通の子だし)
澪と土手で手をつないで横になったこと。
アイスを食べたこと。
家に遊びに行って、ピザを食べたこと。
澪と澪の弟とゲームをしたこと。
消そうとしても、自然と湧き上がるように、頭の中に、思い出が色鮮やかに浮かんだ。
それは全て、“陽真”ではなく、エヌの思い出だった。
(エムは、俺しか知らない)
エヌの口から、ぽろりと言葉がこぼれた。
「楽しかったな……」
ふと目元がじわりと熱くなるのを感じて、自分で驚き、指でぬぐった。
(……武藤を夜に処理して、そのまま久留米 理香もやる)
決心をして、立ち上がった。




