33.残りの仕事
翌朝、陽真は兄の声で目覚めさせられた。
《陽真、おはよ》
いつもどおり、変わらない様子で起こされ、陽真は何度も瞬きをした。
《兄ちゃんてさ、ほんと自己中だよな》
《――昨日、怒鳴って悪かったよ。怒ってるか?》
陽真はむっと眉間に皺を寄せた。
自分が怒っているのは、声を荒げられたことではない。
そのあと、祖父から聞いた『体が弱っている』ということについて聞こうとしたときに、答えなかったことだ。
その考えを読み取った兄は苦笑交じりの心の声で答えた。
《爺ちゃんの言ってることは合ってるよ。俺もうすぐ死ぬかも》
陽真は驚いてベッドから転げ落ちた。
《は?》
《だから、身体が死にそうって。だから疲れやすくてさ。昨日もお前との交信を続けるのが難しかった。悪かったよ》
陽真はぽかんと口を開けた。
兄の口調はいつもどおりで、けれど話の内容は受け入れがたいもので。
思考の整理が追い付かなかった。
《嫌だ》
真っ先に頭に浮かんだ言葉はそれだった。
《兄ちゃんがいなくなるのは、嫌だ》
本気でそう思った。
気づいた時には、兄の意識は常に陽真と一緒にあった。
陽真にとっては、兄は物知りで賢く、頼れる存在だった。
何かに悩めば、その場ですぐに相談に乗ってくれる。
わからないことはたいてい教えてくれる。
一緒にテレビを見て、頭の中で笑いあえる。
もう一人の、自分といってもいいような、半身――それが”兄ちゃん”だった。
《爺ちゃん、五月から、特に弱ってるって言ってたよね》
陽真は必死に考えをめぐらせた。
《それって、僕の身体を兄ちゃんに貸しすぎたからじゃないかな!?》
八歳から。母親が死んだ日から、陽真は兄に身体を貸すことができることを知った。
あの日、母親が『ちょっと病院に行ってくるわね』と言って自宅の二階にある部屋を出た瞬間から、陽真の意識は飛んでいた。
次に意識が戻った時には、母親は棺に入って眠っていた。
《母さんは、階段から足をすべらせて死んじゃったんだ》
兄の声がそう教えてくれた。
《お前が真っ白になってたから、俺がお前の身体を動かしてた》
兄が言うには、階段から落ちて動かなくなった母親を見て、陽真の意識は飛んでしまったらしい。そこで、兄が自分の身体を代わりに動かしていたと。
――陽真は、そのとき。兄が自分を守ろうとしていることを感じた。
思い出したのだ。
母親を階段から突き落としたのは、陽真自身だと。
あの日、母親の真理愛は、病院に行って《あの悪魔を消さなくては》と心で呟き続けていた。――兄をこの世から消そうと、そのつもりで病院に向かっていた。
――それを【受信】した兄は、《助けてくれ》と陽真に叫んだ。
《生きたい》と。
その思念を受け取った陽真はとっさに、真理愛を階段から突き落とそうとした。
……その瞬間、陽真の身体は兄の意識に支配された。
突き落とす瞬間、陽真の意識は、兄に押し流されていた。
――そして、母は死んだ。
それは兄が自分を守るために。その瞬間に入れ替わったのだと、陽真は理解した。
――そして、今までもずっと、兄が自分の代わりに、全てを受けていたことを悟った。
母のお腹の中にいたころ。
無制限に【受信】される周りの思念を、兄は全て受けていた。
……だから、母親は妊娠中は、心の声が聞こえなくなる、とそう言っていたのだろう。
陽真を生む前に、何度も妊娠と流産を繰り返していたのは――、お腹の中の子どもが、【受信】によるストレスに耐え切れずに大きくなれなかったのだろうということを、陽真は体感として、理解した。
――そして、自分が生まれることができたのは。
兄が【受信】を引き受け、自分の背中にくっついて守ってくれていたからだ。
それ以来、陽真は兄に身体を貸すことを拒まなかった。
《まあ、その影響はあるだろうけど。遅かれ早かれ、そんな長くもたなかったとは思うよ》
兄は付け加えるように言った。
《お前が負い目に思う必要はねぇし。逆に、俺に身体を使わせてくれてありがとな》
《そんな、どうにか、やり方が……!》
陽真の心の叫びに、エヌは笑って言った。
《いいんだよ。……だけどさ》
付け加えて言う。
《今日から数日、お前の身体を使わせてほしい。それで終わりにするからさ》
陽真は言葉を失った。
《終わりにするって、数日で兄ちゃん死ぬの!?》
《たぶん……?》
《なんだその、曖昧な言い方》
エヌは笑い声をたてた。
《最後にちょっと調子乗って、彼女とか作ってごめんな。そのあたりの整理をしてから、お前に身体を返すからさ》
陽真はしばらく黙ってからうなずいた。
《……いいよ》
《サンキュー》
ふっと眠りに落ちるような感覚がして、陽真の意識は暗闇へ沈んでいった。
「あとちょっとだけな」
ふっと目を開けた陽真――の身体に入ったエヌは、右の口角を持ち上げた。




