32.残り時間
“兄ちゃん!”
遠くで自分を呼ぶ陽真の声を、エヌは暗闇の中で聞いていた。
音も光も感触も何もない、ただ自分の意識だけがある空間。
――陽真から意識を離してしまうと、自分に残されるのはこの、自分だけの意識空間だけだ。
(怒鳴って、悪かったな――)
エヌは独り言をつぶやいた。
《俺をお前がどうにかできるわけがないだろっ!》
陽真にあんな態度をとったのは、初めてだった。
けれど。自嘲気味に思う。
(あいつが医学部行って勉強したところで、俺の身体があいつみたいになるわけじゃないじゃん? 爺ちゃんがやっとで生命維持できてるだけなのに)
やり場のない怒りがふつふつとわいてきた。
気づいたときに、自分はここにいた。
横には「あーあ」と言えば「うーう」と返してくれる“相方”がいた。
そして、窓から差し込む光を見るように、外の世界の音や物を暗闇の裂け目から感じて育った。 ――それが自分ではない、”陽真”の見て、聞いている世界だと気づいたのは三歳くらいのときだと思う。
同時に「陽ちゃん」と安心するまなざしで自分を呼ぶ「ママ」が、自分ではない”相方”を呼んでいることに気づいた。
――じゃあ、ぼくはだれ?
そう感じたときに、自分は閉じた空間にいることを体感し、周囲の”心の声”を聞く力があることもわかった。“爺ちゃん”が考えている、病室に横たわる”それ”が自分であることもなんとなくわかった。
それを実感してからの、成長は早かった。
エヌは自分のなかに、母親がかつて【受信】した記憶が残っていることを感じた。
『受験なんか落ちて、一緒に出かけたり食事をする娘でいてほしい』
内心そう思う“婆ちゃん”
『こんなに恵まれているのに、やる気があまりないな、真理愛は』
内心ため息をつく”爺ちゃん”。
そこから逃げて――
『かわいい』『胸がいい』『若い』『気持ちいい』。
そんな単純で原始的な思考で自分の思考を埋めてくれる男たちへ逃げた。
真理愛は、そんなふうに生きていた。
その結果生まれたのが、自分と陽真。
自分は陽真のようには生まれることができなかったのだと、自然と認識した。
母親の思考を、祖父母の思考を、周囲の思考を読んでから、学びは早かった。
だから、「ぶーぶ」「あんよ」「わんわん」など幼稚な言葉を使う”相方”が愚鈍に感じた。
“相方”の陽真は、自分のように周囲の声を受け取る力がないのだと気づいたのは、しばらくしてからだった。
《それは“わんわん”じゃねぇよ。チワワだよ》
《そっちの“わんわん”は柴犬だよ。チワワと全然違うだろ。柴犬のがかわいいだろうが》
そう言ってやるたび、陽真は「すごい!」と尊敬の声をかけてくれた。
気づいた時には、陽真はエヌのことを「兄ちゃん」と呼ぶようになっていた。
陽真の考えはエヌには筒抜けだった。
テレビの幼児向け番組で「兄」という存在を学んだ陽真は、エヌは「兄」だと認識したらしい。
エヌは祖父の思考から、自分は陽真の背中にくっついていた不完全な存在であることを、そのときには認識していた。
――どちらといえば、俺がお前にくっついていただけなのに。
そんな自分が陽真に“兄ちゃん”と呼ばれるのは、気分がよかった。
――一方で、どうして自分は、陽真の目や耳を通してでしか世界を認識できないのか、それが不安だった。「陽ちゃん」と陽真といつも遊んでいる「ママ」に、自分も一緒に遊んでいるとわかってほしかった。その時点ではまだ、エヌは陽真としか思考の会話ができなかった。
だから。あの日、呼んだのだ。
自分の“身体”がある病室の近くに、陽真と“ママ”が遊びに来たことが陽真の目を通してわかった。だから、陽真を“兄ちゃんはここにいるぞ。ママも連れてきて遊ぼう”と誘導したのだ。
――そして、“ママ”――母の真理愛と陽真は部屋にやってきた。
陽真は“兄ちゃん”と身体に抱きついた。
本体の身体の感覚はほとんどない。それでも普段は感じない重さと、温かさを感じた。
――けれど。母は。
硬直していた。真理愛の恐怖感と困惑が、陽真を通じて伝わってきた。
《これは、なに――?》
《陽ちゃんは、誰と話しているの?》
《私の力は、陽ちゃんに遺伝してなくなった?》
《――違う。”これ“は私から出た”悪魔”だ。それが陽ちゃんに悪さをしようと囁いている》
母親の思考が、日に日に悪化していくのを、エヌは陽真をとおして感じていた。
そして八歳のあの日。
真理愛は、《もう我慢できない》《あの”悪魔”を消さないと》と、エヌの病室に向かおうと部屋を出た――
そのとき、エヌははっとして暗闇で気配を探った。
――誰かの意識の気配を感じる。
《苦しいよ……》
《息ができないよ……》
エヌははっとして、その声に強く呼びかけた。
《玲央!!!》
水の中に沈んでもがく小さな少年の姿が暗闇に浮かぶ。
エヌは思考を集中すると、周囲にイメージの世界を作り出した。
澪と練習した、ゲーム世界の雲の王国。
《あれ……? 雲の上? ぼく、死んだの?》
玲央は目をぱちくりすると、エヌを見て、手を振った。
《兄ちゃん!》
《お前、なんで、こっちに意識ふらふらしてんだよ。身体とつながってないと、ほんとに死ぬぞ!?》
エヌは声を荒げて、玲央の身体をゆさぶった。
玲央――久留米 玲央は、一ノ瀬病院の入院患者だ。
エヌの部屋のある五階の下、長期療養の小児患者が入院している四階にいる三年前から入院している少年だ。
エヌは自分の近くを漂う玲央の思念を【受信】し、三年前から交流があった。
――といっても、玲央の意識は曖昧で、一緒に意識の世界で遊んでやっても、毎回そのことをほとんど忘れてしまう。エヌがいつも夢の世界で遊んでくれる存在ということだけは覚えていてくれるのだが。
エヌは玲央の意識を戻すため、祖父を説得した。
陽真の身体を借りて玲央の病室へ行き、玲央の意識を身体に呼び戻す試みをしていた。
最近は、意識が身体に定着してきて、本体に触らないとやりとりができない状態まで回復していたのに――。
そこでエヌははっとした。
(俺が、しばらく玲央の病室に行っていなかったからか)
澪と知り合ってからのこの三週間、玲央の病室に行っていなかった。
前は週に一度は行って、意識を肉体に呼びもどすための【交信】を行っていたのに。
エヌは玲央を見つめた。
《お前、なんで身体から離れちゃったの?》
《わかんない》
玲央は首を振った。
《ママはどこ? ママとお風呂にはいってたんだ。ぼく》
《お休みだから、小学校のランドセルを見にいって》
《そしたら――》
玲央の周りに水たまりが広がり、玲央はずぶずぶとそこに沈んでいく。
一緒に湯船につかる、母子の姿が映る。
《なんで、ドラゴンコラボのランドセルだめなの!》
《あれは、ちょっと高いから、他のにして!》
《なんで! パパがいないからうちお金ないの?》
《……》
《ママが怒ってばっかいるから、パパいなくなっちゃったんでしょ!》
母親が玲央の頭を湯船に押さえつける。
ざばざばと水を跳ね上げ、玲央は溺れだした。
《玲央!!》
エヌは叫ぶと、玲央の手を引き上げた。
同時に、玲央の記憶が頭に流れ込む。
自分の頭を押さえつけて、浴槽に沈める、目に光のない母親の顔――
そこに、エヌの母親の真理愛の顔が被って見えた。
エヌは頭を振って思考を祓うと、玲央を抱き上げて、抱きしめた。
《だから、水は溺れるところじゃないって言ってんだろうが》
玲央は咳き込むと、首を傾げた。
《――ぼくは水遊び、好きだよ。プールに行くと水着のお姉さんがいるし……》
やはり、記憶があやふやで、会話がうまく続かない。
エヌは苦笑した。
《水着のお姉さんって、ガキが何言ってんだよ》
《だって、ほら、あそこにいる》
玲央の指さす方を見て、エヌは顔を青くした。
そこには何故か、水着を着た澪がいた。
《……消えてくれ》
エヌは頭を左右に大きく振った。水着の澪の姿は砂が吹き飛ばされるように消えた。
《深層心理が出てきた? あいつに見られたら、殴られそうだな》
そう言って、口の端を上げる。
《あ、お月さま!》
玲央が空を指差した。
いつの間にか、暗闇に満月が浮かんでいた。
澪の家から帰る途中に見た月だった。
エヌは泣きたい気持ちになった。
《俺が普通だったら。陽真だったら》
あの時間をずっと楽しむことができるのだろうか。
――けれど、エヌは首を振って月を消すと玲央の頭を撫でた。
《お前を身体に戻してやるまで、俺は間に合わないかもしれない》
祖父の言う通り、自分の身体が長く持たないことは、エヌ自身が実感していた。
《だから、どうせなら、お前を苦しめた相手も、一緒に地獄に引きずって行ってやるから》
やり場のない怒りが、また思考を満たす。
――ずっと、憎かった。
普通に生きていけるくせに、人を傷つけるような連中が。
通学電車ですれ違ったひき逃げ犯に、櫻井 紗理奈をいじめて追い込んだ武藤 理央、そして――玲央をこんなふうにした、玲央の母親。
そんなやつらが普通に暮らしていて、どうして俺だけ、この世からいなくならなきゃいけない。
――最初はそんな動機だった。
通学電車で澪と知り合ったときは、そんなやりたかったことの実現に、澪が使えると思った。――けれど、今は。
エヌはまた自分の世界に浮かびそうになる澪の残像を思考の底に鎮めると、玲央の頭を撫で、目を閉じた。
残された時間で。武藤に始末をつけて、玲央の母親も壊してやる。
(――残りは、俺だけで)




