31.エヌという存在
「――“兄ちゃん”の容態がよくない――って、どういうこと!? 爺ちゃん」
顔を真っ青にした陽真を、祖父の一ノ瀬 幸一は落ち着かせるように肩をたたいた。
「――もともと、お前の“兄”は、生きてるのが不思議な状態なんだ。ただ、五月に入ってから、特に弱っている……」
幸一はベッドに横たわる小さな身体を見つめる。
人型をしているが、これを人と認識していいのか、幸一はいまだに迷っていた。
陽真が“兄ちゃん”と呼ぶ彼は、かつて陽真の背中に付着していた胎児だった。
幸一は彼を”摘出”したときを思い出した。
医学部を目指して勉強に励んでいた一人娘の真理愛――陽真の母親が突然家出をしたのは十八歳の受験直前だった。――二年後、急に戻って来た真理愛は妊娠していた。
「今までの子は、全員生まれなかったのに、今度は生まれそうなの」
泣きながら真理愛は言った。
既に三十週を越えており、一度も病院には行っていないと告げられた。
一ノ瀬病院の正式名称は「一ノ瀬こども病院・小児神経センター」、分娩を行う産婦人科から、小児医療までを行う総合病院だ。
幸一は真理愛を自分の病院で出産させることにした。
――そして、臨月よりやや早く、早産の帝王切開で生まれたのが陽真だった。
陽真の背中は、未発達の胎児が付着して膨らんでいた。
「寄生性双生児」――もともと双子であった存在が、陽真の身体に取り込まれたものだった。
ここまでは医学の話だ。
だが、その後に起きたことを説明できる医学用語を、幸一は知らない。
陽真が二歳になったとき、その腫瘍の除去手術を一ノ瀬病院で行った。
幸一も院長として、孫の手術に立ち会ったのだが――摘出されたそれは、人の形をしていた。
小さな手。
小さな脚。
未発達な身体。
幸一には、それがただの組織には見えなかった。
そのとき、幸一の脳内に一つの声が響いた。
《生きたい》
幸一は、その思念に突き動かされるように、延命処置を指示した。
病院の医師や看護師は、幸一の言葉に困惑しながらも、指示に従ってくれた。
数日しかもたないだろうと、そのときは思った。
――しかし、その存在は死ななかった。
ゆっくりと成長し、今も生きている。
それを「人」と呼ぶべきなのか、「奇跡」と呼ぶべきなのか。
幸一には、今でもわからなかった。
「兄ちゃんに、聞いてみる!」
陽真の焦った声で、幸一は現実に引き戻された。
陽真は兄の頭部に触れ、目を閉じた。
その光景を幸一は、じっと見つめる。
――陽真が、「“兄ちゃん”に会いたい!」と言った日の衝撃を今でも覚えている。
“兄”の存在は、娘の真理愛や陽真には黙っていた。
真理愛の心を守るために、妻の雅恵と話し合って、そう決めたのだ。
陽真の父親はどこの誰であるのかわからない。
真理愛自身もわからないと言っていた。
――あの品行方正な、「お父さんの後を継いで医者になりたい」と言って勉強を頑張っていた一人娘は、家を出た後、繁華街に立ち、複数の男性と関係を持つ生活をしていたようだ。
その事実を知って、幸一も雅恵も言葉を失った。
「何故、そんなことをしていたのか」と呆然と聞くと、真理愛は泣きながら「“声”を聴きたくなかったから」と答えた。
高校生になったころから、真理愛は周囲の人間の心の声が聞こえていたと言った。
幻聴ではないかと心配した幸一と雅恵に、真理愛は怒鳴った。
『お母さんは、私が受験に失敗すればいいと思っていた!』
『お父さんは、私は環境を整えてやってるのに、なんでこんなにできないんだって思ってた!』
――図星だった。
幸一自身は同じく医者であった親に、「自力で勉強して行けないくらいなら、医者を目指すな」と言われ、塾にも行かせてもらえず、自力で勉強して医大に入った。だから――『医者になりたい』とそう言ってくれる一人娘には、できる限りの環境を整えてやろうと、幼稚園から環境を整えてきてやったつもりだった。――しかし、正直なところ、幸一の目には、真理愛がかつての自分ほど真面目に勉強に取り組んでいるようには見えず、内心苛立つことがあった。――妻の雅恵も図星だったようで、夫婦は娘の前で言葉を失ってしまった。
幸一は、娘の話を信じることにした。
真理愛は、心の声が聞こえるようになってしまい、それに耐えきれず家出をし――、そして、逃避するように自分を求める男と生活する暮らしを選んだのだと。
真理愛の話では、妊娠中は『声』が聞こえなくなることに気づいた、と言っていた。
だから、何度も妊娠を繰り返していたと。
今までは何度妊娠しても、途中で流れてしまっていたから、今回こんなになるまで子どもが大きくなると思わなかったと真理愛は言った。
――陽真を生んだあと、真理愛は“声”が聞こえなくなったと言った。
幸一も雅恵も、かつての明るい娘が、可愛い孫と戻って来たと喜び合った。
“生きたい”
あのとき確かに聞いた思念は、あの陽真の兄が発したものでないかと思い当たったとき、幸一は、このことは娘の真理愛には、黙っておこうと決めた。もう、真理愛を混乱させたくないと思ったからだ。
――しかし、陽真が五歳になり、院長室に真理愛と遊びに来ていたとき。
唐突に言ったのだ。
『兄ちゃんに会いたい!』
陽真は迷うことなく、この特別病室へ母の真理愛と幸一の手を引いていき、ベッドに横たわる身体に抱き着いて呼んだのだ。
『兄ちゃん!』と。
「陽真、お前の兄は、何か言ってるか?」
幸一の問いかけに、陽真は目を開けると首を振って、兄の身体から手を離した。
「駄目だ。兄ちゃん、寝ちゃったみたいだ」
「――お前から話しかけるときは、身体に触れないといけないんだな」
幸一の問いに陽真はうなずいて笑った。
「――そう。自分勝手なんだ兄ちゃんは。自分からは僕がトイレに入ってるときだって話しかけてくるくせに」
陽真の話では、陽真は生まれてからずっと、兄の声を聞いていたらしい。
――小さい頃の陽真は、独り言を言いながら一人遊びばかりやっていて、雅恵と真理愛が心配していた。――それが、頭の中の“兄”と話していたと知るのは、陽真が五歳になってからだった。
病室に実在する陽真の兄を見つけた真理愛は、精神的に不安定になった。
自分にかつて宿っていた、周りの人の心を聞かせる”悪魔”がそれなのだと思い込むようになっていった。
――そして、陽真が八歳のある日。真理愛は自宅の階段から転落死してしまった。
幸一は真理愛が死んだ日。
――自分が陽真の“兄”を生かしたことは、よかったのかと自問自答した。
妻の雅恵が、半狂乱になって、幸一の肩を揺さぶり、「あなたが、”あれ”を生かしたから!」と責めたことを思い出す。
――それより怖かったのは、八歳の陽真が、落ちついた声で幸一の背中をたたいて、
『婆ちゃんもびっくりしてるだけで、爺ちゃんのことを本当に怒ってるわけじゃないよ』
と言ったことだった。
病室で眠る彼の兄の姿が脳裏をよぎった。
だが、幸一は考えるのをやめた。
これ以上、家族を失いたくなかった。
だから、その日から幸一は、深く考えることをやめた。




