30.”彼女”って何
一ノ瀬病院の横に建てられた豪勢な日本家屋が、一ノ瀬家の自宅だった。
その自宅前で、一ノ瀬陽真は立ち尽くしていた。
“自分用”のスマホの時間を見る。
五月二十九日金曜日――二十二時。
月曜日の朝、“兄”と入れ替わってから今までの間の記憶がごっそりと抜け落ちている。
いつも”兄”に身体を貸すときは、兄は必要な記憶を陽真に残していてくれるはずだった。
今回は『一週間学校は行ってない。先週、暴行事件を見てショック受けて休んでたことになってる。今日は“彼女”の家に行ってたから、遅くなった。さすがに爺ちゃん怒ってると思うけど、よろしくな』――と、ただ、そんな兄からの伝言のような記憶だけが残されていた。
(いや、“彼女”って誰だよ、兄ちゃん)
わけもわからず、混乱した頭のまま、とりあえず自宅の玄関に入った。
「陽真! こんな遅い時間まで、何をやってたんだ!」
扉を開けると、兄の予想通り、陽真の今まで聞いたことのないような祖父の怒鳴り声が飛び込んできた。
「爺ちゃん、ごめん、遅くなって」
「ごめんじゃないぞ! お前、今週ずっと学校も休んでいたそうじゃないか」
祖父は眉をひそめた。
「――また面倒なことに足を突っ込んでるんじゃないだろうな」
「陽真、ごめんね。あなたが学校を休んで出かけていたこと、お爺ちゃんには黙っておくつもりだったのだけど、今日はあまりに帰りが遅いし、連絡もないから……」
祖母の雅恵があせあせと間に入ってくる。
(兄ちゃんは婆ちゃんに口止めしてたけど、爺ちゃんがそれに気づいたってことか)
――兄のように、人の心が読めれば、状況把握も楽なのに、と陽真はため息をついた。
陽真には兄のように、人の心の声を【受信】する能力はない。
陽真にあるのは―――
陽真は心の中に穏やかな風景を思い浮かべ、微笑んだ。
「ごめん、ちょっと進路のことで悩んでて、――“友達”に相談していたんだ」
兄が“彼女”と言っていた人物については、あとで確認しよう。
とりあえずこの場を和ませなくては。
「……だから、医学部を目指すのがしんどいのなら、別に無理に頑張らなくてもいいと言っているぞ」
祖父は表情を和らげた。
祖母もにこやかに笑う。
「そうよ、陽真。――夕ご飯は食べてきたのかしら? お夜食を作りましょうか?」
陽真はほっと息を吐いた。
陽真の能力は【拡散】――自分の気分を周りに伝染させることができる力だった。
そのため、陽真が穏やかな気持ちでいれば、周りも穏やかな気持ちになる。
(――けど、腹が重いな)
陽真は自分の腹を触った。――たらふく食べた実感があった。
兄の記憶の断片をたどると、ピザが見えた。
(兄ちゃんのやつ、またジャンキーなもんばっか食べたな)
ため息をつき、祖母に笑いかけた。
「外で食べて来たから、夜食は良いよ」
それから祖父を見る。
「爺ちゃん、遅いけど――兄ちゃんのところへ行ってきていい?」
祖父は「わかった」とうなずくと、席を立った。
陽真と祖父は一緒に自宅裏の一ノ瀬病院へ向かった。
職員入口より院長家族の療養スペースとして改装された特別病室がある最上階へ向かった。その一番奥の部屋――そこが、陽真の兄――エヌの部屋だった。
◇◇◇
「院長先生」
入ると、部屋に待機していた看護士が祖父に頭を下げた。
「少し、外してもらえるか」
看護師を部屋の外に出すと、陽真は部屋の中央にあるベッドを囲むカーテンを開けた。
「兄ちゃん! 来たよ!」
ベッドの上に横たわっていたのは、幼児だった。
身長は百センチに届かない。
痩せた手足が白いシーツの上に伸び、胸元には心電図のコードが繋がれている。
黒髪は陽真とよく似ていた。
だが、何年も陽の光を浴びていない肌は青白く、閉じられた瞼はぴくりとも動かない。
喉には人工呼吸器の管が繋がれ、規則的な作動音に合わせて小さな胸が上下していた。
眠っているようにも見える。
けれど、その身体は陽真と同じ十六年を生きた人間のものには見えなかった。
成長が途中で止まってしまった子ども。
そんな表現が一番近いかもしれない。
機械の力を借りながらではあるが、確かに生きている。
ただ、その身体だけが、時間に取り残されたように小さいままだった。
陽真はその頭に自分の手を置いて、目を閉じた。
――すると、周りの風景が切り替わった。
暗い空間に、自分と同じ姿の少年――“にいちゃん”――エヌが浮かび上がる。
エヌは「よっ」と手を挙げると、まず最初に詫びた。
《陽真、俺の尻ぬぐいさせて悪ぃな。疲れて、意識持たなくなって戻っちゃったんだ。爺ちゃん怒ってただろ?》
その声は、心の声として直接脳内に響く。
《怒ってたよ。――てか、“兄ちゃん”……いろいろ聞きたいことはあるんだけどさ。まず――”彼女”って誰?》
暗闇にパーカー姿の同年代の少女の姿がふわり写真のように浮かんだ。
《相沢澪。同学年。通信制高校に通ってて、登校日の通学電車が一緒。住所は――》
羅列される個人情報を陽真は《待った》と止めた。
《え? いつ知り合って、いつから付き合うことになったの?》
《知り合ったのは、五月十一日、電車で。付き合ったのは、今日》
《今日!? どういうこと?》
《いや、流れでエムのお母さんに後つけられててさ、流れで実家に行くことになったんだけど、ややこしいから、付き合ってることにして……》
《エムってこの子のことか?》
《そうそう。俺はエヌで、エヌとエムって呼び合ってる》
《兄ちゃん、そんな痛いことやってんの!?》
《”痛い”ってなんだよ。カッコいいだろ。澪ちゃんは“みお”だから頭文字Mで、俺は、NoName……》
陽真はびくっと強張った。
なぜなら、エヌ――“兄ちゃん”には戸籍も、氏名もなかったから。
陽真は“兄ちゃん”とずっと呼んでいて、祖父や祖母は「陽真の兄」と呼んでいるだけだった。
その思考を察知したエヌは、肩を持ち上げて笑った。
《お前が気にすることじゃねぇし。いいんだけど。とにかく、俺はエヌって呼ばれてる》
《なんで、そんなややこしい呼び方を》と頭に浮かんだ言葉を、陽真は飲み込んだ。
兄の《名前で呼ばれてみたかった》という思考が流れ込んできたから。
心の声で会話する兄との間に、隠し事はできない。
《――相手の子はわかったよ。でもさ、勝手に付き合わないでくれよ》
陽真はため息をついてエヌを睨んだ。
《兄ちゃんが、先週河川敷で目撃した事件の事情聴取があるかもしれないっていうから、一週間、僕は引っ込んでたのに》
《今週ずっとその子と遊んでたわけ?》
《学校行かないで》
心の中で文句を並べる。
《まあ、そうだけど》
悪びれない様子のエヌに、陽真は口調を厳しくした。
《もう高二だし、勉強しないと医学部受からないよ……。彼女は大学になってからでいいって話してたじゃん》
エヌは視線を下に向けた。
《そうだな。お前は、医学部に入って、青木坂の斉木 寧々ちゃん似の彼女を作るんだもんな》
暗闇の空間に、アイドルの少女が浮かぶ。
陽真は声色を低くした。
《僕の考えを浮かべないでよ。――いや、そういう気持ちはなくはないけど、僕が医学部に行きたいのは、兄ちゃんをどうにか――》
《俺をお前がどうにかできるわけがないだろっ!》
エヌの叫び声が空間に響いた。
陽真は驚いて、思わず兄の頭から手を離して立ち上がった。
兄が陽真に怒鳴るのは、これが初めてだった。
意識が兄の空間から離れ、現実の病室に戻る。
「――陽真、どうだ。お前の“兄”は、何か言っていたか」
祖父に声をかけられ、振り返る。
祖父は表情を険しくしていた。
「……お前に伝えるかは迷っていたんだがな。お前の“兄”の容態が最近――良くない。何か本人は伝えてきたか?」




