26.家へ
「いいんですか! 嬉しいです!」
エヌは澪の母親の提案に、本気で目を輝かせていた。
澪は半ば呆れて、半ば驚いて心の中でつぶやいた。
《ほんとにあたしの家に来る気なの》
《俺、誰かの家行くの初めてだもん》
《――?》
澪は首を傾げた。小中高と登校拒否にもならず登校していて、一度も誰かの家に行ったことがないということはあるだろうか。
澪だって、学校に行かなくなった中学校からは、友人づきあい一切切ってしまったが、小学校までは誰かの家に行くことはあった。
《――”俺”としてね》
エヌがぽつりとつぶやいた。
《――どういう……》
どういう意味? と聞く前に、澪の母親が顔をあげた。
「じゃあ、駅まで行きましょうか」
「はい」
エヌは返事をすると、てきぱきとアウトドアチェアを折りたたみ、保冷バッグとともにまとめた。
「それ、持ってくるの」
「うん。手持ちできるし」
「まあ、いいけど」
そんなやりとりをしている澪とエヌを母親は目を細めて見つめている。
《仲が良さそうね》
そのあと、思考は夕食のメニューに飛んだ。
《家に来る? なんて言っちゃったけど、夕食、どうしようかしら》
《……一ノ瀬君、食べるわよね》
《――カレー……とかが無難かしら》
そのとき、母親の思考に、ピザのイメージが急に浮かんだ。
《ピザ……そうね、ピザ……》
母親がピザに気持ちを傾ける。
澪はエヌを見た。
エヌがにやっと笑っていた。
《あんた、お母さんに、ピザのイメージ送り付けたでしょ!?》
《いや……宅配ピザってさ、一人じゃなかなか注文できないからさ》
《え? あんた弟いるんでしょ……》
そこで澪は、エヌの記憶にあった病室のイメージを思い出した。
《そっか。あんたの弟、食べられないとか……?》
《……まあ、そんなとこ。婆ちゃん、宅配ピザなんか絶対頼まないし》
その横で澪の母親はピザについて考えている。
《そうよね。いきなり手作りの夕食なんて、嫌がられるかもしれないわ。――ピザ、宅配ピザにしましょう》
澪はエヌの肘を小突いた。
《良かったね。ピザになったみたいよ》
《……やった》
エヌが小さくぐっと親指を立てた。
その様子が本当に嬉しそうだったので、澪はなんとも言えない気持ちで見つめた。
母親が歩き出し、澪とエヌもその後ろをついていく。
澪はふと立ち止まると、後ろを振り返った。
――武藤理央の家。
母親は家を出て行って、今あそこには、武藤だけがいるはずだ。
《どうかした?》
エヌの声が響く。
《――今日は、もういいの?》
《一区切り、ついたからな》
エヌは澪の手をひいた。
《ピザ、食いに行こ》
《――うん》
澪は向きを変えると、母親の後を追った。
人を追い詰めた帰り道に、ピザの話をしている。
どちらが普通で、どちらがおかしいのか。
澪には、もうわからなかった。
◇◇◇
澪と母親とエヌは電車に乗って、澪の家の最寄り駅まで移動し、歩いて自宅のマンションへ向かった。
扉を開けると、玄関には既に三人分のスリッパが並べられ、澪の父親が待ち構えるように立っていた。父親は会社帰りのスーツ姿のままだった。
「……やあ、こんにちは」
父親はエヌに真っ先に視線を投げかけた。
《――思ったより、真面目そうな男子じゃないか》
《千佳のやつ、大袈裟に“澪が事件に巻き込まれてるかも”なんて言うから早退したが》
《彼氏と遊んでただけだったのか?》
《まあ何事もなくよかったが》
「こんにちは」
頭を下げるエヌを見て、父親は心の声でつぶやいた。
《――“イケメン”ってやつじゃないか、これは。澪のやつ、なかなかやるじゃないか》
《……まあ、澪も顔は悪くないしな》
一方で、母親の千佳は、眉間に皺を寄せて父親を見つめていた。
《お父さんったら、こんなふうに出迎えたら、二人にプレッシャー与えるじゃないの》
《リビングで待ってればいいのに、出しゃばりなんだから》
「ふ」
澪の横でエヌが小さく息をもらして、口元を押さえた。
《なにこれ。ホームドラマ?》
《……無理》
《は?》
《【受信】切るよ》
澪はエヌの手を振り払うと、靴を脱ぎ、玄関に上がり、心に【壁】を作った。
両親の心の声が遮断されて、少し気持ちが落ち着いた。




