23.心配
澪は想像の世界でエヌと空の国を散策した、ふわふわとした気持ちのまま、電車に揺られて家に着いた。
自宅マンションの階段を昇り――ガチャリと扉を開ける。
まだ十七時半。弟も両親も、学童と仕事からまだ帰ってきていないはずだ――
と思いながら靴を脱いだところで、リビングの扉が開いた。
「……おかえり、澪」
少し低い声に顔をあげると、エプロン姿の母親が眉間に皺を寄せて澪を見ていた。
「……ただいま。お母さん、早いね……」
驚いて玄関に立っていると、母親が近づいてきた。
「――どこかに、出かけていたの?」
距離が近づき、心の声が聞こえる。
《最近、夜に学校の授業を見てるみたいだし》
《日中、家にいない……?》
《どこで、何をしているの?》
《今日、半休をとったのに》
《ずっと家にいなかった》
(やば)
澪は焦った。行動を疑われている。
(ええと、お母さん昼から半休とっていたなら――)
お母さんが昼から家にいたなら、近所を散歩していたじゃ通らない。
しばらくの沈黙のあと、澪は小さな声で答えた。
「本屋……に行ってた」
誤魔化すように付け加える。
「漫画の新刊、買いたかったんだけど、駅前の本屋になくて――、お昼から、電車でちょっと遠くまで……」
《……嘘ね》
母親の心の声がした。
(バレてる……)
けれど。母親は小さく息を吐くと、背中を向けた。
「……そう。買えたの?」
「結局、――発売日勘違いしてて……」
「それは残念だったわね。――ご飯、あと少しでできるから、早めに食べれるわよ」
「……悠斗が帰ってきてから食べる」
「そう。その方が助かるわ」
澪はソファに座ると、恐る恐るキッチンに立っている母親を見つめた。
対面キッチンに立ったエプロン姿の母親は、じゅうじゅうと音を立てるフライパンを握りながら、澪をちらちらと見ていた。
《心配だわ。SNSで変な人に会ってたりしないかしら》
《お父さんに相談――駄目ね、あの人は“気にしすぎ”とか“過干渉”とか言ってくるに決まってる》
《明日、仕事を休んで……》
《でも会議があるし……》
《でも、また澪が変になったら、大変だもの》
《私がちゃんと見ててあげないと。女の子だし――お父さんは頼りにならないわ》
《また病院になったら……》
エヌと過ごすようになってから、【受信】の精度が上がっている気がした。
キッチンとソファ、以前なら聞こえなかった距離の母親の思念が雪崩のように流れ込んでくる。
(そりゃ、心配するよね……)
でも。
(今、やめられない)
エヌの顔が頭をよぎる。
ここで自分だけ抜けてしまったら。
(あいつ、一人で放っといたら、何しでかすかわからないし)
街中で誰か危険な悪人を暴走でもさせたら、事件になってしまう。
澪は母親から流れてくる思考を遮断しようと、テレビをつけて、動画サイトの音楽を再生した。
音楽に意識を集中して、【受信】をしないように意識に壁を作った。
――すると。
(……あれ?)
澪はふと、顔をあげた。
先ほどまで頭に流れ込んでいた母親の思考がストップし、ただ、音楽の音だけが聞こえた。
頭の中は、防音室にいるように静かだった。
(【受信】しない……)
澪は、音楽を止め、母親の方を見つめた。
《あと数日は様子を見て……》
《いえ、変なことに巻き込まれていたら》
《明日は、でも会議だから……》
また、思考が流れてくる。
澪はまた【壁】を心の中に作ってみた。――すると、母親の声は聞こえなくなる。
(これ、あたし、コントロールできるようになったんじゃない……?)
澪は思わず立ち上がって、自分の両手を見つめた。
自分より【能力】の使い方が上手なエヌと一緒にずっと【受信】や【送信】をくりかえしているうちに、使い方がうまくなったのかもしれない。
澪は思わず胸の前で手を組んだ。
(――また、普通に生活ができるかもしれない……?)
想像する未来が、ずっと部屋にいる自分じゃなくなった。
街を歩いて、働いて、誰かと話している――そんな姿に。
◇◇◇
――翌日。朝起きると、既に母親はいなかった。
「お母さん、今日は会議だから早く出るってさ。朝ごはん、適当にパンでも焼いてくれよ」
父親はそう言い残して、弟と共に家を出て行った。
澪はそれを見送ると、いつものようにパーカーの私服姿で、リュックを背負い、エヌの待っている土手に向かった。
(お母さん、今日は普通に仕事に行ってくれてよかった)
――昨日の心配している様子だと、休みをとって、一日家にいるようなこともするかもしれない様子だったから。
いつもの場所――武藤の家の前の土手に行くと、エヌは既にアウトドアチェアを二つ設置して澪のことを待っていた。
隣に座り、手をつなぐ。エヌに昨日、能力のコントロールができたことを報告したかった。
《昨日、【受信】の【遮断】ができたよ》
《そりゃ、すげぇな》
その間に、沈黙が流れた。
《――大学進学して、カフェのバイトすんの?》
澪は自分のイメージがエヌに伝わったことがわかり、ぱっと手を離した。
昨日から、自分の将来についてのさまざまな想像が頭をよぎっていた。
今までは諦めていた可能性が。
エヌはじっと澪を見据えた。
《――病院で働きたいのか?》
《……そう》
澪は視線を空に向けた。
《いろいろ、私も病院でお世話になったし。そういう仕事をしてみたいなっていうのはあって》
漠然とした気持ちは抱いていたけれど。
病院のような、さまざまな弱った人と接する職場は、自動で【受信】してしまう状態では、働けないと思っていた。
そのとき、頭が冷えるような、エヌの声が脳内に響いた。
《人を病院送りに、するようなこと、俺と一緒にしといて》
「――」
澪は言葉を失ってエヌを見つめた。
エヌ自身も、言った瞬間に凍ったような顔をした。
エヌが、澪からぱっと手を離した。
「――あ」
エヌの顔色が真っ青になっていた。
今まで見たことがないほど、動揺している。
「違う。今のは――」
エヌが立ち上がった。
澪は視線を落とした。
《いいよ。思っちゃったんでしょ》
反射だったのだと思う。
《――その通りだから》
澪は武藤理央の家を見つめた。
既に五日。月曜日から澪はエヌと一緒に、ここであの家の住人に、櫻井紗理奈の思考を送り続けている。それは、【送信】している時間に不在の父親を除き、武藤とその母親を確実に追い詰めているのだから。
――武藤の家は、もう五日前と同じではなかった。




