14.心を読む
エヌが重ねた手を引こうとした。
澪はそれを掴んで止めた。
エヌの心を覆っていた壁のようなものの綻びを掴んだ気がした。
意識を集中して、読み取る。
――それは、普段の【受信】よりも、意識的なものだった。
エヌが普段、澪や他の人間に対してやっている、より能動的な【受信】。
エヌの心の【綻び】から、櫻井紗理奈についてのイメージが流れ出てくる。
学校の調理室だろうか。
エプロンを着たセーラー服や学ランの制服姿の生徒たちが、立って作業をしている。
壁際のホワイトボードには「から揚げ定食」と書いてある。
《油、怖いよ》
《ひっくり返ったら、火傷するじゃん……》
《調理実習で揚げ物しなくても》
《大丈夫だよ。結構、簡単だよ》
一人の生徒に視線が移動した。
目元のぱっちりした少女が、手際よく、衣のついた鶏肉を油の入った鍋に放り込む。じゅわじゅわっという音とともに、衣が茶色くなり、から揚げができあがる。
《さりちゃん、すごいね!》
《慣れてる感じだな》
わぁという歓声に囲まれて得意そうに笑う少女は、櫻井紗理奈だった。
場面は盛りつけに移る。
紗理奈がトングでから揚げを仕分けていく。
(この視点は、――エヌの見ている視点)
澪は心の声でつぶやいた。
《めっちゃ、から揚げ見てるじゃん……》
エヌの視点は、山盛りのから揚げの山を、熱心に見つめていた。
その視線に気づいたのか、紗理奈が振り返って、微笑んだ。
『一ノ瀬くん、さりのから揚げ、いる?』
『え』
『一ノ瀬くん、今日は、から揚げが好きな日でしょ?』
『……なんだよ、それ』
『さり、気づいちゃったんだ』
紗理奈が悪戯っぽく言う。
『一ノ瀬君はね、魚が好きな日と、から揚げとかハンバーグが好きな日の二種類があるの』
透明なマスカラをつけたぱっちりした目元を細めた。
『さりは、から揚げが好きな日の一ノ瀬くんの方が、いい感じだと思ってるよ』
エヌの心臓が跳ねるのを、澪は自分のことのように感じた。
《魚が好きな日と、から揚げが好きな日……ってどういう意味?》
その紗理奈の言葉がエヌにとってどういう意味を持つのかわからずに、澪が混乱した瞬間――綻びが閉じられて、跳ね返された。
手が振り払われ、低い声が耳に飛び込んでくる。
「勝手に覗くな」
エヌが眉間に皺を寄せて、こちらを見ていた。
「あんたは、あたしのこといろいろ覗いてるくせに」
思わず口で言い返すと、エヌは顔を隠すように肘をついて、唸った。
「……それは……、まあ、そう……」
《納得してんじゃん》
心の中でそうつぶやいて、また手を机の真ん中に置くと、エヌは息を吐いてから、また手を重ねてきた。
《――怒ってるわけじゃない?》
《いや、まあ、俺もお前の心を見てるわけだし》
エヌは水を一口飲むと、深く息を吐いた。
《――櫻井は、明るくて……かわいいし。勉強は少し苦手そうだったけど、人気者だったよ》
うつむく。
《と、思ってた。中三の夏休み明けから、体調を崩したとかで、学校に来なくなった》
澪はエヌの言葉の続きを、静かに待った。
《櫻井と仲が良かった子の心を読んだら、食事が食べられなくなって激やせして、そのまま県西病院に緊急入院したって》
エヌは首を振った。
《それから、退院しても自殺未遂したとか――今まで入退院繰り返して、戻ってきてない》
語気を強めて、エヌは言った。
《――武藤理央が、櫻井に何をしていたのか、俺は今まで、知らなかった》
《え、でも。武藤って子が加害者なのは、知ってたんでしょ?》
《担任が櫻井は長期で休むって言ったときに――“ちょっとからかってやっただけなのに”って、あいつ、考えてたから――》
エヌの手に力が入った。
《それだけだ》
《櫻井は》とエヌは続けた。
《教室に来てるときは、何も、読み取れなかった。普通に、“次の授業は何かな”とか、”今日の夕ご飯は何かな”とか、そんなことしか、考えてなかった》
《エヌでも、読み取れなかった……?》
《俺だって、常に人の心を読んでるわけじゃない。授業中とか、そんなことやってたら、勉強できねぇだろ》
《それは、そうだけど。――でも、櫻井さんの心は、意識的に読んでたの?》
また、綻びを探る。
《――好きだった?》
《……そういうわけじゃない》
エヌは絞り出すように呻いた。
《ただ、嬉しかったんだ。気づいてくれたことに》
《“魚が好きな日”と”から揚げが好きな日”? 何のこと?》
《……食べ物の好みの違いだよ》
エヌは澪の手から逃げるようにさっと手をひくと、注文タブレットを起動した。
「腹減ったから、何か食べよう」
口でそう言いながら、メニューを見ていく。
《お前も食べれば》
手を重ねていなくても、エヌは澪の声を受信できるし、送信できる。
けれど、澪は、まだそこまではできない。
離れた手を見つめて、澪はつぶやいた。
「――飲み物だけでいいや。食欲が、湧かなくて」
ばっとエヌが顔をあげた。顔色が悪くなっている。
《さっきの【受信】のせいか? 大丈夫か?》
《私の心配は、してくれてるんだ……》
そんな考えが頭に浮かび、澪は斜め後ろを振り返った。
澪の吐き気をそのまま【送信】されて、吐いてしまった客は、もう店を出ていた。
《あの人も、大丈夫かな……》
《悪かったとは思ってる。でも、一時的だろ――》
あの人は、もしかしたら普段は働いていて、たまの休みに友達と待ち合わせて食事に来たのかもしれない。――澪の母親も、たまに平日に休みをとって『息抜きだわ』と友達と食事に行くことがある。そんな休みを台無しにしてしまったかもしれない。
そう考えをめぐらせていたら、エヌがタブレットを置いた。
《お前が飲み物だけにすんなら……俺も、今日は飲み物だけにして帰るよ》
澪は口がすっきりするように、レモンと炭酸の飲み物を頼んだ。
エヌも同じものを頼んだ。
《……私に合わせたでしょ。本当は、チーズインハンバーグを食べようとしていたのに》
《……》
エヌは黙り込むと、ずずっとストローを吸った。
《あの映像見た後で、よく食欲湧くね……》
《――ふだん、食べられないから》
エヌは頭を抱えた。
《俺は、自分がおかしいって自覚がある。――でも、エムは違う》
「違う、そういうことを言いたいんじゃ」
澪は思わず、口で言った。
エヌは驚いたように顔を上げた。
《――とにかく、エムの力のおかげで、櫻井のことがよくわかった。ありがと》
そう言って、勢いよくジュースを飲むと、立ち上がった。
財布からお札を出し、置いていく。
《俺、帰るわ。保護者に変に思われそうだし》
澪は立ち去ろうとするエヌの手をつかんだ。
《あんた、また一人で何かする気?》
《――決めてない》
《何かするなら、あたしに、連絡しなよ》
そう言うと、エヌは目を見開いて、
「――わかった」
と口で答えた。
◇
「ただいま」
エヌは表札に『一ノ瀬』と書かれた、大きな病院の裏にある昔の日本家屋風の豪邸に帰宅した。
割烹着姿の老女――祖母の雅恵が振り返る。
「あら、陽真。おかえり。お友達と駅前で食事をしてくるって言ってなかった?」
「ちょっと、相手の都合が悪くて、僕だけ帰って来たんだ」
そう答えると、雅恵は嬉しそうに笑った。
「そうなの。――婆ちゃん、ちょうど、お魚を焼いてお昼に食べようとしていてね。一緒に食べる?」
エヌは、少し止まると、笑った。
「……やった」
「陽真は昔から、焼き魚が好きだものねえ」
雅恵のつぶやきに、エヌは苦笑した。
(“陽真”はね)




