10.祖父
『男性が数名、殴り合いの喧嘩をしている』
そんな通報を受け、河川敷には多数のパトカーと救急車が出動していた。
スウェット姿の少年――エヌは警察に囲まれ、聴取を受けていた。
「一ノ瀬 陽真くん……、君が通報してくれたんだね」
《都内の進学校じゃないか。なんでこんな辺鄙なところに……》
学生証を見た警官の心の声を聞いて、エヌは視線を落とした。
「はい。学校に行きたくなくて――、今日は、沿線をふらふらしてたんです。土手を歩いていたら、大きい声が聞こえて、のぞいてみたら、殴り合いになっていたので、通報しました」
《――こんな優等生が、変な輩に巻き込まれてかわいそうに》
ショックを受けた様子は、うまく警官の心をとらえたらしい。
エヌはこっそりと肩を持ち上げた。
「――とりあえず、保護者の方を呼ぶから。署でもう少し話を聞かせてもらうからね」
エヌはパトカーに乗せられ、最寄りの警察署に運ばれた。
――しばらくして。
エヌが案内された個室に、白髪の男が入ってきた。
老人ではあるが、背筋は真っすぐ伸びており、威厳がある雰囲気だ。
エヌの向かいに座っていた警察官も立ち上がって背筋を伸ばした。
「――孫が、お世話になりました。その子の祖父の一ノ瀬 幸一です」
エヌは「爺ちゃん」と顔を上げた。
「いえいえ。陽真くんが通報してくれて、こちらとしてもありがたかったですよ」
それから、エヌを見て言う。
「まさか一ノ瀬病院の院長先生のお孫さんとは。――来ていただいて、ありがとうございます。もう帰っていただいていいですよ」
それから、エヌの肩をたたいた。
「――もう帰って大丈夫だよ。ゆっくり休んでくれ。――後日、聴取で話を聞くかもしれないけれど、そのときは頼むよ」
エヌは「わかりました」と祖父と共に頭を下げて、警察署を出た。
◇◇◇
祖父の幸一の車に乗り込む。
幸一はエヌを見つめて、低い声で言った。
「陽真、学校はどうした?」
《今日だけじゃない、確認したら三日も休んでいた》
心の声を聞いて、エヌは首をすくめた。
「ごめんなさい。僕、最近学校に行きたくなくて――、それで、ふらふらしていたんだ」
「――そういうときも、あるだろうと思う。勉強が、ストレスか?」
《真理愛のようになっては……》
真理愛。それは、エヌの母親の名前だった。
彼女は、八年前に死んだ。
(――逃げてばかりの、自分のことしか考えてない女)
エヌは心の中で吐き捨てた。
しばらくの沈黙が車内に流れ、幸一はハンドルにうつ伏せた。
「――お前の母親のことを、今考えていた。お前にはお見通しだものな」
幸一はエヌの能力のことを知っている。
うつ伏せたまま、呻くように言った。
「真理愛も大学受験のときにおかしくなった。無理に医学部を目指さなくていいんだ。――もし、勉強が辛いなら、無理をしなくても――」
「爺ちゃん、僕は、母さんとは違うよ」
車内にエヌの刺すように冷たい声が響く。
幸一の眉がぴくりと動いた。
「陽真――」
幸一はハンドルから頭を持ち上げると、目を大きく見開いた。
目の前の孫は、見慣れた人好きのする笑顔ではなく、右の口角だけを上げた、歪んだ笑い方をしていた。
「――嫌なことから逃げ出して、男に依存するような、そんな弱い人間じゃない」
「陽真!」
幸一は声を荒げた。
「お前、自分の母親に、なんてことを――」
それから、言葉を失ったように孫を見つめた。
心の声が車内に響く。
《また、この目だ――》
《今回の事件は、まさか、陽真が――?》
《いや――》
「――とにかく、診療をキャンセルして来たから――はやく、病院に戻りたい」
ハンドルに向き直った幸一は、フロントガラスだけを見つめて、言った。
「雅恵も――婆ちゃんも心配しているぞ」
エヌはうなずいた。
「――爺ちゃん、ごめん、ちょっと、まだ頭が整理できてなくて……」
「当たり前だ。あんなゴミみたいな連中の喧嘩に、お前が巻き込まれなくてよかったよ」
深いため息。
「あんなのが搬送されてきたんじゃ、たまったもんじゃないな。自業自得だろうに――迷惑な」
エヌは心の中で独り言ちた。
(俺に気づいてるくせに。この爺さんは、いつも見て見ぬふりをする)
意識が戻らない玲央を救うために、エヌの能力を利用しようとするくせに。
エヌのこと自体は見ようともしない。
――大事な、品行方正な孫の“陽真”だけを見ようとする。
(俺のことをわかってくれるのは)
ポケットのスマホを握りしめた。
澪とつないだ手の温かさが蘇って、エヌはうつむいた。




