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「割に合わないので、辞めます。」 ——元金ランクの天才魔道士、全部計算で解決したかったのに計算外の相棒ができました——  作者: わんだ


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村の朝と、ありがとうの意味

【村の朝と、ありがとうの意味】


 朝霧の中に、村が見えた。


「あ、見えました! タルニス村です!」


 シオンが指差した先に、石造りの低い家並みが霧にけぶっている。街道の終点にある小さな村だ。家屋は20軒ほど。畑と牧草地に囲まれた、のどかな——退屈そうな場所。

 エルドヴァレスの谷底に比べると、空が信じられないくらい広い。朝日が丘陵の向こうから射し込んで、畑の露を光らせている。空気が澄んでいて、肺に入ると冷たくて甘い。鳥が鳴いている。のんびりした声だ。街ではカラスと酔っ払いの怒鳴り声しか聞こえなかったから、この静けさは新鮮だった。

 道の脇に野花が咲いている。黄色と白の小さな花が朝露に濡れて、光を弾いている。きれいだと思った。合理的な感想じゃないけど。


「ここまで来れば魔物はもう出ないの?」

「はい。村の周囲に結界石が埋められてるので、小型の魔物は寄ってきません」

「結界石。維持費は?」

「年に1回、ギルドから補修士が来て更新してくれるそうです。費用は村の共同負担で」


 合理的な仕組みだ。結界石の維持コストを村全体で分散して、農業の安全を確保している。小規模だが、ちゃんと回っている。


 村の入口に差しかかると——シオンの様子が変わった。

 背筋がすっと伸びて、荷車を引く足取りが軽くなった。街道を歩いている時の、どこか頼りない雰囲気が消えている。ここは彼の「仕事場」なのだと、あたしは理解した。


「シオンくん!」


 最初に声をかけてきたのは、畑仕事をしていた中年の女性だった。鍬を置いて、小走りに駆け寄ってくる。


「おはようございます、マルタさん。今月分の荷物、届けに来ました」

「ああ、よかった! 待ってたよ。鍛冶屋のジグが、鉱石はまだかまだかって毎日うるさくてね」


 マルタと呼ばれた女性が、シオンの顔を見てほっとした表情を浮かべた。心底安堵している顔だ。荷物を待っていたのではなく、シオンが無事に来たことに安堵している。

 そしてあたしに気づいた。


「あら。今回はお連れさんがいるんだね」

「はい、護衛のイグリットさんです。道中、すごく助けてもらいました」

「あらまあ、護衛! シオンくんが護衛を雇うなんて初めてじゃないの。いつも1人で来てたのに」

「今回は少しだけ余裕ができたので」


 シオンが照れたように笑った。「少しだけ余裕」——あの薄い報酬で、護衛を雇える程度の「余裕」。たぶん、自分の食費か装備代を削ったのだろう。合理的じゃない。


「マルタさん、薬師のエルサさんは?」

「診療所にいるよ。朝から老人たちの湿布の張り替えで忙しそうだった」


 シオンが荷車から薬草の束と液体の入った瓶をいくつか取り出し、背負い袋に詰めた。手帳を開いて中身を確認している。あの几帳面さは相変わらずだ。


「イグリットさん、薬師さんのところに先に行ってきます。荷車、ここに置いておいて大丈夫ですか」

「あたしが見てる」

「ありがとうございます!」


 シオンが小走りに村の奥に向かった。その背中を見送りながら、あたしは荷車に寄りかかった。

 マルタがにこにこしながらこっちを見ている。


「……何」

「いや、シオンくんがねえ。あの子、いつも1人で来て1人で帰ってたから。お連れさんができて、おばちゃん嬉しいよ」

「お連れさんじゃなくて護衛。仕事の関係」

「はいはい、仕事ね」


 絶対わかってない。この手のおばちゃんは、否定するほど楽しそうにする。面倒なのであたしは黙った。

 マルタは畑に戻りながらも、ちらちらとこっちを見て何か嬉しそうにしている。村の噂のネタにされるのは時間の問題だろう。迷惑な話だ。


 10分ほどでシオンが戻ってきた。隣に白衣を着た女性を連れている。30代半ばくらい。眼鏡をかけた、知的な雰囲気の人だ。


「イグリットさん、薬師のエルサさんです」

「ああ、あなたがシオンくんの護衛さん。ありがとう、この子を守ってくれて」


 エルサが深々と頭を下げた。予想外の丁寧さに、あたしは少しだけ面食らった。背が低いから子供だと思われるかと身構えていたのに、最初からちゃんと「護衛」として扱ってくれた。


「……仕事ですから」

「仕事でもよ。この子が怪我せずに帰ってくるのが、私たちには一番大事なの。前に腕を怪我して帰ってきた時は、村中大騒ぎだったんだから」


 シオンが「あれは大したことなかったんですけど」と苦笑している。岩蜥蜴に噛まれた時の話だろうか。3日腫れたと、けろっとした顔で言っていたやつ。大したことないわけがない。


 エルサの目が真剣だった。薬師として荷物が届くことの重要性を誰より理解しているはずだが、彼女が一番気にしているのは荷物ではなくシオンの安全だ。

 背負い袋から薬草と薬液を受け取ったエルサが、1つずつ丁寧に確認していく。


「うん、状態がいい。シオンくん、保管が上手くなったね。前は薬草の葉が少し折れてたけど、今回は完璧」

「荷車の中に緩衝材を入れるようにしたんです。イグリットさんに——あ、いえ、自分で思いついて」


 あたしは何も教えてない。嘘をつくな。いや——あたしが昨日、素材の運搬について「衝撃を避けろ」と言ったのを応用したのか。薬草にまで。

 学習速度が、地味に高い。


「ありがとう、シオンくん。これで2ヶ月分の回復薬が作れるわ」


 エルサが微笑んだ。シオンが嬉しそうに——本当に嬉しそうに笑った。太陽みたいな笑顔。あの笑顔だ。

 昨夜、焚き火の前で言っていた。「ありがとうって言ってもらえるんです。それだけで十分です」。

 今、あたしはその「ありがとう」を目の前で見ている。


 エルサが薬草を抱えて診療所に戻っていった。シオンは手帳にチェックを入れている。「薬師・エルサ——納品完了」。几帳面すぎる。


「次は鍛冶屋」

「うん。ジグさんのところは村の東側です。ちょっと歩きます」


 あたしは荷車を引くシオンの横を歩いた。

 村の中を進むたびに、すれ違う人がシオンに声をかける。「おう、シオン来たか」「今月も無事でよかったねえ」「うちの娘がお菓子焼いたから後で寄りなさい」。

 全員が、シオンの名前を知っている。

 全員が、シオンの顔を見て安心している。

 そしてシオンも、全員の名前を覚えている。挨拶を返す時に、必ず相手の名前を呼ぶ。「ハンスさん、お元気ですか」「リーナさん、娘さんの風邪、治りました?」。

 あたしには逆立ちしてもできない芸当だ。人の顔と名前を覚えるのが苦手なんじゃない。覚える必要がないと切り捨ててきただけだ。


 ——この少年は、この村にとって「なくてはならない存在」なのだ。


 鉄ランク。最弱の冒険者。刻印の数値は笑えるほど低い。剣も下手。魔法も使えない。

 でも、この村の人たちにとって、シオンは金ランクの冒険者より余程重要だ。


 あたしの計算モデルでは、冒険者の価値はランクと実績と収益で決まる。

 この村の計算モデルは——違うらしい。


 ……まあ、辺境の村と都市では変数が違う。それだけの話だ。

 考えすぎだ。まだ朝なのに。寝不足のせいにしておこう。


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