焚き火と、合理的じゃない沈黙
【焚き火と、合理的じゃない沈黙】
日が傾いて、街道の脇に野営に適した窪地を見つけた。
崖の張り出しが天然の屋根になっていて、風が遮られる。地面は乾いた砂利で、火を焚いても燃え広がらない。水場も近い。
——あたしが選んだ。シオンは「前はもう少し先で野営してました」と言ったが、あたしの目にはここの方が良い。周囲の地形が見渡せるし、崖を背にすれば警戒方向が半分で済む。護衛の基本だ。
「火は起こせる?」
「はい。得意です」
「じゃあ任せる。あたしは周囲の警戒をしてくる」
シオンが手際よく薪を組み始めた。火打ち石の扱いが上手い。荷車から調理道具を取り出す動きにも迷いがない。こういう野営の実務は、戦闘より余程こなれている。
あたしは窪地の周囲を一周して魔力探知を飛ばした。半径200メートル以内に魔物の反応はない。今夜は静かに眠れそうだ。
戻ると、焚き火がすでにいい感じで燃えていた。炎の上に小さな鍋が乗っている。
「何それ」
「夕飯です。街道スープ。冒険者の定番らしいんですけど」
鍋からいい匂いがした。干し肉と根菜と豆を煮込んだスープだ。蓋を少しずらすたびに、白い湯気がふわりと立ち上って夕暮れの空気に溶けていく。シオンが香辛料を振り入れると、煮立つスープの表面で粉が溶けて、湯気の匂いが一段と濃くなった。胡椒と、何か甘い香辛料——シナモンか。鍋の中で根菜がことことと踊っている。
鍋の横では、昼の残りのパンを薄く切って焚き火で炙っている。端がカリッとこげ始めて、バターの焦げた匂いが立ち上る。じわじわと焼き色がついていくのを見ていると、腹が正直に鳴った。聞こえていないことを祈る。
「ここの崖の下、すごくいい場所ですね。前はいつも風に吹かれながら寝てたので」
「それは場所選びが悪い。護衛がいないと、そういう判断も自分でやらないといけないから辛いだろうね」
「はい。正直、野営は毎回怖かったです。火を焚くと魔物が来ないか不安で、消すと暗くて不安で」
「火は焚いた方がいい。街道の魔物は基本的に火を避ける。角猪も岩蜥蜴も」
「そうなんですか。じゃあずっと無駄に怖がってたんだ……」
シオンが苦笑した。自分の無知を恥じるでもなく、ただ「そうだったのか」という素直な受け止め方。
この少年は、知らないことを知らないと言える。弱いことを弱いと認められる。それは——鉄ランクの新人としては、実はかなり重要な資質だ。自分を過信する冒険者は、知らない危険に突っ込んで死ぬ。
スープが煮上がった。シオンが木の椀に注いで、あたしに差し出した。
一口すすった。
——熱い。そして美味い。
干し肉の旨味が根菜に染み込んでいて、噛むたびにホクホクと甘い。豆がとろりと崩れて、スープにとろみを加えている。胡椒のピリッとした刺激の奥に、シナモンの温かい甘みが隠れている。身体の芯から温まるタイプの味だ。野営の夜に、冷えかけた身体にじんわりと熱が戻っていく。
2口目、3口目。スプーンを運ぶ手が止まらない。根菜が舌の上で崩れるたびに、じゅわっと出汁の旨味が広がる。干し肉は長く煮込んだおかげで繊維がほぐれて、噛むほどに肉の味が出る。
炙ったパンをスープに浸して食べた。カリカリの表面がスープを吸って、外はサクッ中はじゅわっという二重の食感になる。バターの塩気がスープの甘みを引き立てる。パンの切り口から染み出すスープが指を伝って、慌てて舐めた。行儀が悪い。誰も見ていないからいいけど——シオンは見ている。気にしないことにする。
空を見上げると、星が出始めていた。谷底のエルドヴァレスでは見えない数の星。焚き火の明かりと、星明かりと、スープの湯気。
「……やるじゃん」
「ありがとうございます」
シオンも自分の椀を手に、焚き火の向かい側に座った。2人の間で炎が揺れている。
「シオン」
「はい」
「なんで冒険者を続けてるの」
昼にも似たようなことを聞いた。でも、今聞きたいのはもう少し踏み込んだ話だ。
「鉄ランクで2年。この街道の往復を繰り返してる。ランクが上がる気配もない。普通なら諦めるでしょ」
きつい言い方だったと思う。でも事実だ。鉄ランクで2年は長い。普通は半年で銅に上がるか、諦めて別の仕事に就く。
シオンはスープを一口飲んで、焚き火を見つめた。炎が青い目に映って、揺れている。
「……僕は、強くないです。それは自分でわかってます」
知ってる。
「刻印の数値も低いし、剣も下手だし、魔法は全然使えません」
全部知ってる。
「でも——この街道を走る荷車を引ける人は、僕しかいないんです」
あたしは黙った。
「村の薬師さんは、僕が原料を届けるのを待ってます。鍛冶屋さんも。雑貨屋のおばあちゃんも。他に誰もこの仕事をやらないから、僕がやるしかないんです」
「……それは、使命感?」
「使命感っていう大げさなものじゃなくて」
シオンが穏やかに笑った。焚き火に照らされた横顔が、昼間の太陽みたいな笑顔とは違う。静かで、でも温かい。
「行くたびに、ありがとうって言ってもらえるんです。それだけで——十分です」
あたしは何も言えなかった。
合理的な反論がいくらでもできる。効率が悪い。報酬が低い。危険に見合わない。もっと稼げる仕事がある。
でも——そのどれも、シオンの「ありがとうって言ってもらえる」に勝てない気がした。
あたしの計算モデルには「ありがとう」の価値を換算する関数がない。
「右腕の布——」
あたしは聞いてしまった。昼から気になっていたこと。
「その青い布。何のため?」
シオンの表情が一瞬だけ変わった。笑顔が消えたわけじゃない。ただ、どこか遠い目になった。焚き火を見ているようで、炎の向こうの何かを見ている。
「……大切な人の、形見です」
それだけ言って、シオンは黙った。
あたしはそれ以上聞かなかった。
焚き火がぱちりと爆ぜた。
沈黙が降りた。でも、気まずい沈黙じゃない。ただ静かなだけの、穏やかな沈黙。
星空と、焚き火と、スープの残り香。隣にいる少年の、静かな呼吸。
——こういう時間は、あたしの人生計画のどこにも組み込まれていなかった。
組織を抜けて、ソロで稼いで、合理的に生きる。そこに「焚き火を囲んで誰かと黙って座る」なんて項目はなかった。
無駄な時間だ。生産性ゼロ。収益に寄与しない。
なのに——悪くない。
「もう寝ましょうか。明日の朝には村に着きますし」
「……そうね。交代で見張る。前半はあたし。後半はシオン」
「わかりました。起こしてくれれば、いつでも」
シオンが荷車の横で毛布にくるまった。5分もしないうちに寝息が聞こえてきた。切り替えが早い。疲れていたんだろう。8体の岩蜥蜴に囲まれて、逃げずに荷車を守ったのだから。鉄ランクの身体には相当な負荷だったはずだ。
あたしは焚き火に薪を足しながら、星空を見上げた。
夜の森は静かだ。虫の声と、遠くの谷川のせせらぎと、焚き火が燃える低い音。見張りには慣れている。組織にいた頃は、もっと危険な場所で一晩中起きていたこともある。それに比べれば、街道の野営は天国みたいなものだ。
今日の収支を計算する。角猪5体、岩蜥蜴8体。素材売却見込みは約9000レイド。依頼報酬1000レイドと合わせて、1日で10000レイド相当。
圧倒的に割に合う。あたしの判断は正しかった。
——判断は正しかった。
右手の指輪が、焚き火の光を反射して鈍く光った。黒い金属の表面に、赤い炎が映り込んでいる。この指輪がなければ、今日の戦闘は3倍楽だっただろう。岩蜥蜴8体なんて、本来のあたしなら欠伸をしながら1発で全部吹き飛ばせる。
でも、今はこれでいい。制限された力で、頭を使って、効率よく稼ぐ。それがあたしの生き方だ。
なのに、今あたしの頭を占めているのは、素材の値段でも明日の計画でもなく。
「ありがとうって言ってもらえるんです。それだけで十分です」
あの言葉が、焚き火の爆ぜる音みたいに、ぱちぱちと頭の中で弾けている。
合理的な理由は——今回も、特にない。




