岩蜥蜴と計算外
【岩蜥蜴と計算外】
午後の街道は、朝とは空気が変わった。
丘陵地帯を抜けて、岩がちの渓谷沿いの道に入った。左手に切り立った崖、右手に浅い谷川。道幅が狭くなり、荷車がぎりぎり通れる程度になる。
岩蜥蜴の出現区間だ。
「この辺りから気をつけて。岩蜥蜴は岩と同じ色をしてるから、動くまで見分けがつかない」
「はい。前に一度、足元にいるのに気づかなくて噛まれたことがあります」
「噛まれたら毒は」
「ありません。ただ、顎の力が強くて——ブーツの革を貫通しました」
「……ブーツ越しに噛まれて平気だったの」
「平気ではなかったです。3日くらい腫れました」
けろっとした顔で言うの、もうお馴染みだ。この少年の痛覚は正常なのか。
午後の3体目の角猪を仕留めて素材を回収した後——午後だけで角猪3体、合計で5体だ——渓谷の道を30分ほど進んだところで、あたしは魔力探知に違和感を感じた。
多い。
「止まって」
「はい」
シオンはもう慣れたもので、あたしが言う前に荷車を止めて止め石を噛ませていた。学習が早い。
あたしは右手に魔力を灯して、周囲を探った。岩壁に反射する魔力の反応が——。
「8」
「え?」
「岩蜥蜴が8体いる。周囲の岩に張りついてる」
想定では5、6体のはずだった。8体は多い。しかも位置が——街道を挟んで両側に分散している。逃げ場がない。
「普段もこんなに出るの」
「いえ……多くて4体くらいです。こんなの初めてで」
シオンの声に緊張が混じった。初めての状況。8体の岩蜥蜴に囲まれた状態で、荷車という守るべき対象がある。
あたしは冷静に計算した。
岩蜥蜴は角猪ほどのスピードはないが、数で来られると面倒だ。鱗が硬く、衝撃波が通りにくい。弱点は腹側と目。精密射撃なら1体3秒。8体で24秒。
——ただし、全方位に散らばっている。あたしが前方の4体を処理している間、後方の4体が荷車を狙う可能性がある。荷車の横にはシオンがいる。
「シオン。荷車から離れないで。何があっても」
「わかりました」
「剣は抜いておいて。来たら防御だけでいい。倒す必要はない。時間を稼いでくれればあたしが処理する」
「はい」
シオンが腰の片手剣を引き抜いた。錆びかけた金具の鞘から、安物の刃が午後の陽を鈍く反射する。手が震えている——いや。
見間違いだった。
手は震えていない。握りは固いが、安定している。鉄ランクの新人が8体の魔物に囲まれて、怖くないはずがない。なのに逃げる気配がない。あの犬みたいな目に、静かな覚悟が灯っている。
右腕の青い布が風に揺れた。一瞬——本当に一瞬だけ、布の下で何かが光ったような気がした。気のせいか。
——意外だ。
考える暇はなかった。岩蜥蜴が動いた。
最初の1体が右の岩壁から飛び降りてきた。灰色の体長1メートルの蜥蜴。口を大きく開けて、まっすぐ荷車に——。
あたしの魔法が先だった。赤い光が蜥蜴の腹を正確に捉え、吹き飛ばす。岩壁に叩きつけられて動かなくなる。
2体目。左の崖上から。同じく1発。
3体目、4体目。同時に来た。右と左。あたしは両手を使った。右手で右の蜥蜴を、左手で左の蜥蜴を同時に撃ち落とす。片手ずつ別の標的を狙う並列制御。魔力消費は倍になるが、時間が半分になる。
4体。8秒。
残り4体。背後——荷車の方。
振り返った瞬間、2体がすでに荷車に取りついていた。もう2体がシオンに向かって地面を這っている。
「シオン!」
あたしは走った。荷車までの距離は10メートル。魔法の射程内だが、荷車に取りついた蜥蜴を衝撃波で吹き飛ばすと荷物が壊れる。精密射撃で——。
その時、シオンが動いた。
荷車に這い上がろうとする蜥蜴の1体に対して、シオンが剣を振り下ろした。不格好な一撃だった。フォームも何もない。ただ、全力で。
刃が岩蜥蜴の頭を叩いた。硬い鱗に弾かれて手がしびれたはずだが、シオンは怯まなかった。そのまま剣の腹で蜥蜴を荷車から押し返す。落ちた蜥蜴が体勢を立て直す前に、もう1体が横から迫ってきた。
「——っ!」
シオンが咄嗟に身体をひねって、2体目の突進を避けた。足元が崩れかけたが、荷車の縁を掴んで踏みとどまる。そして剣を構え直した。
弱い。技術もない。たぶん鉄ランクの中でも下の方だ。
でも——逃げない。荷車の前から一歩も退かない。
あたしの魔法が3体目と4体目を同時に撃ち抜いた。シオンが押し返した1体目にも追撃を入れる。残った2体目——シオンの足元で体勢を立て直しかけた蜥蜴の目に、ピンポイントの赤い光を叩き込んだ。
静寂。
8体の岩蜥蜴が全て沈黙した。崖の上から吹く風の音と、シオンの荒い呼吸だけが渓谷に響いている。
「……終わった」
「終わりました、か」
シオンが膝に手をついた。肩で息をしている。額から汗が流れ落ちている。剣を持つ手が——今度は震えていた。戦闘中は止まっていたのに。
怖かったのだ。怖かったのに、逃げなかった。
「怪我は」
「ないです。たぶん」
「たぶんじゃなくて確認して」
「あ、はい——大丈夫です。噛まれてません」
あたしは息を吐いた。
8体。想定外の数。なぜこんなに多かったのか。街道の魔物分布が変わっている? ——考えておくべき情報だ。後でメモしておこう。
岩蜥蜴の素材を回収した。8体分。鱗の状態は——あたしが仕留めた6体は完璧。シオンが叩いた2体は鱗に傷が入っているが、腹側の柔らかい鱗は無事だ。
岩蜥蜴の鱗は1体あたり600レイド。8体で4800レイド。角猪5体の素材と合わせると——初日だけで素材の売却見込みが7000レイド近い。依頼報酬の7倍。
あたしの計算どころか、上振れしている。岩蜥蜴が想定より多かったおかげだ。皮肉な話、危険が増えた分だけ実入りも増えた。
ただ、その「想定外の多さ」が引っかかる。
街道の魔物は、一定の縄張りを持っている。通常の分布なら岩蜥蜴はこの区間で3、4体が上限のはず。8体は異常だ。上流から追い出されてきたか、あるいは——。
あたしはアウレクスの報告書を思い出した。中層の魔物配置の変化。浅層への深層種の流入。あの異変がダンジョンの外にも波及している可能性は——考えすぎか。今は。
「シオン」
「はい」
「さっきの——悪くなかった」
「え?」
「剣の腕は最悪だけど、逃げなかったのは悪くなかった。荷車を守ったのは正しい判断」
シオンが目を丸くして、それからゆっくりと笑った。戦闘直後で顔色は悪いのに、笑顔だけは太陽みたいだ。
「ありがとうございます。でも、全部イグリットさんが倒してくれたおかげです」
「あたしは依頼通り護衛しただけ。あなたが逃げてたら荷車は守れなかった。あの2体を荷車から引き離したのは、あなたの判断」
「……そう、ですか」
「そう。事実を言ってるだけ」
事実だ。感情とかじゃない。戦闘の分析として、シオンの行動は正しかった。それだけ。
——それだけなのに、なんであたしは今、ちょっとだけ、この少年を見直している自分に気づいて、居心地が悪いんだろう。
合理で説明できない感情は、扱いに困る。




