新しい朝と、ギルド長の指示
【新しい朝と、ギルド長の指示】
朝。
安宿の薄壁の向こうから、シオンの寝息が聞こえている。穏やかだ。
あたしはベッドに座って、左手の指輪を見ていた。
黒い指輪。8年間ずっと薬指にあったもの。第5階で——一度外して、はめ直したもの。
今は——選択だ。重さは同じ。でも、意味が違う。
窓から薄い朝日が差し込んでいる。下層の朝は遅い。上層の白い建物群が、谷の上で光っているのが見える。中層の商業地区はまだ動き始めたばかり。下層の冒険者街は——まだ半分眠っている。
昨日、ギルドの掲示板で深層調査の依頼書を受けた。あの依頼書はまだあたしのポーチに入っている。「ダンジョン深層調査——応急封印の効果検証および恒久封印方法の調査。対象:エルドヴァレスダンジョン第5階最奥部。期間:未定」。
あそこに、もう一度戻る。
怖いか。少し。
でも——「楽しみだ」。昨日、ダンジョンの入口に向かう途中でシオンに言った言葉が、まだ自分の中に残っている。
薄壁の向こうで、寝返りの音。
「——イグリットさん? 起きてます?」
壁越しにシオンの声。寝起き特有の、少しかすれた声。
「起きてる」
「あ、おはようございます。朝食、作りますね」
「いい。今日は食堂で」
「え? 節約——」
「節約じゃない。あなたの料理はわかってる。たまには違うものを食べてみる」
薄壁の向こうで、シオンが笑った気配がした。
身支度を整えた。深紅のショートジャケット。ニーハイブーツ。腰のポーチ。左手の黒い指輪。
いつもと同じ装備。でも、鏡に映った自分の顔が——少し違う気がする。
部屋を出た。廊下でシオンと鉢合わせた。
「おはようございます、イグリットさん」
寝癖が酷い。紺色の髪が右半分だけ跳ねている。白い一房が額に垂れている。
「……髪を、直して」
「あ——すみません」
慌てて手で押さえる。直らない。
あたしは溜息をついて、自分の指で軽く撫でつけた。シオンの髪は、触ると柔らかい。
シオンの顔が——少し赤くなった。
「あの——イグリットさん。最近、距離が」
「近い?」
「近い、です」
「——あなたが言うことか」
「すみません」
あたしも口角が上がりそうになる。隠した。
1階の食堂に降りた。朝の客は少ない。隅のテーブルに座って、朝の定食を2つ頼んだ。500レイド。
シオンが追加でスープを頼んだ。あたしも、つられて頼んだ。朝のスープは温まる。
西洋風の根菜のシチュー。肉と根菜と、香草のかおり。
パンを千切って、スープに浸す。
「シオン」。距離感を計算してから決めた呼び方じゃない。いつの間にか、自然にそうなった。
「——シオン」
「はい」
「『パートナー』って、何だと思う」
シオンが少し考えてから、答えた。
「えっと——一緒に決められること、ですかね」
「決められる?」
「依頼を受けるか断るか。次にどこに行くか。何を食べるか。——どっちかが決めるんじゃなくて、2人で」
なるほど。
「——いい定義」
「ありがとうございます」
シオンがほっとした顔をする。
あたしはスープを飲んだ。温かい。
パートナー。2人で決める。
その言葉が、自分の中で何か新しいものに変わっている気がした。
朝食を終えた頃、安宿のおやじが奥から声をかけてきた。
「イグリットさん。さっき、ギルドから伝令が」
「——ギルド?」
「ギルド長から——ふたりで本部に来てほしい、と」
あたしはシオンを見た。
シオンもあたしを見ていた。
「——昨日の依頼の話?」
「たぶん」
ふたりで定食代を払って、安宿を出た。
下層の通りはまだ静か。冒険者街の朝は遅い。焼き肉の匂いは、夜ほど強くない。
上層へ向かう階段を、2人で登った。
昨日の決断の、続きが始まる。
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