「楽しみだ」と、新しい朝
【「楽しみだ」と、新しい朝】
朝。
安宿の窓から、薄い光が差し込んでいる。壁が薄い。隣の部屋から——寝息が聞こえている。シオンの寝息。穏やかだ。
あたしはベッドに座って、ギルドの掲示板で見た依頼書を思い出していた。
「ダンジョン深層調査——応急封印の効果検証および恒久封印方法の調査。対象:エルドヴァレスダンジョン第5階最奥部。参加資格:銀ランク以上。期間:未定。報酬:特別加算」
第5階の亀裂。あの青白い光。根源エネルギーの漏出点。
あたしたちが倒した深層種がいた場所。シオンの紋様が暴走しかけた場所。あたしが指輪を外した場所。
——あそこに、戻る。
怖いか。
少し。でも——恐怖の隣に、もう1つの感覚がある。あの亀裂の向こうに、世界の謎がある。フィルターの修復方法がある。根源の正体がある。
あたしの頭を、最も有効に使える場所がある。
隣の部屋でシオンが起きた気配がした。布団がめくれる音。あくびの音。
あたしは身支度を整えた。深紅のショートジャケット。ニーハイブーツ。腰のポーチ。左手の黒い指輪。
部屋を出た。廊下でシオンと鉢合わせた。
「おはようございます、イグリットさん」
寝癖がひどい。紺色の髪が右半分だけ跳ねている。白い一房が額に垂れている。
「……髪を直して」
「あ——すみません」
1階に降りた。食堂で朝食。定食2つ。
シオンがスープを追加で頼んだ。あたしもつられて頼んだ。朝のスープは温まる。
「イグリットさん」
「何」
「割に合いますか。——この調査」
シオンが——にやりと笑った。
あたしはスープを飲んだ。温かい。
「——割に合わない。報酬は安い。危険は高い。期間は未定。浅層で地道に稼いでいた方がよほど効率がいい」
「ですよね」
「でも——行く」
「なんでですか」
「……あなたが行くから。それと——世界の謎を解くのが、面白いから」
「面白い。——イグリットさんが『面白い』って言った」
「言った。何か問題が?」
「問題ないです。——嬉しいだけです」
あたしはスープを飲み干そうとした。
「あの——イグリットさん」
「何」
「僕、まだ弱いです。たぶん、行く先でも足を引っ張ります」
「知ってる」
「即答——」
「事実だから」
シオンが小さく笑った。
「でも——隣にいたいです。弱いまま、隣に。それが——僕の答えです」
弱さを認めた上で、隣にいたいと言う少年。
3ヶ月前、掲示板の前で「角猪に追い回された」と震えていた少年が——同じ弱さを、今度は手放さずに抱えて立っている。
「——いい。あなたの足を引っ張る分は、あたしが計算に入れる」
「えへへ」
あたしはスープを飲み干した。
食堂を出た。ギルドに向かう。朝のエルドヴァレス。冒険者街はまだ半分眠っている。
ギルドの掲示板。あの依頼書がまだ貼られている。
あたしは依頼書に手を伸ばした。
「——受ける」
隣でシオンが同じ依頼書に手を伸ばした。
「——僕も受けます」
受付嬢が2人の名前を記録した。
「パーティ名は——」
「符号なし」
受付嬢が微笑んだ。
ギルドを出た。ダンジョンの入口に向かう。
朝日がエルドヴァレスの谷に差し込んでいる。上層の白い建物群が光っている。中層の商業地区が動き始めている。下層の冒険者街から、まだ焼き肉の匂いは——朝は早すぎる。
「イグリットさん」
「何」
「——楽しみですね」
あたしはシオンを見た。170センチの少年。紺色の髪。深い青の目。海の底みたいな色。右腕の新しい藍色の布。安物の剣。でも手入れは完璧。
3ヶ月前——掲示板の前で、この少年の依頼書を見た。暗算3秒。損得計算。
それが——全ての始まりだった。
割に合わない依頼。割に合わない少年。割に合わない関係。
全部——あたしの計算を壊した。
でも——壊れた計算の向こうに、計算では出せなかった答えがあった。
「——楽しみだ」
あたしは言った。
シオンが笑った。太陽みたいに。
あたしも——笑った。もう隠さない。
2人で、ダンジョンの入口に向かって歩いた。新しい朝の光の中を。
——と、その時。
冒険者街の角を曲がる手前で、あたしの探知が微かに反応した。
振り返った。通りの向こう側に、1人の男が立っていた。冒険者の格好。だがアウレクスの紋章はない。知らない顔。
男はシオンの方を見ていた。——いや、シオンの右腕を。
あたしと目が合った瞬間、男は視線を外した。何事もなかったように、通りの人混みに消えていった。
気のせいかもしれない。朝の冒険者街は人が多い。シオンの布は目立つ。見る人間がいてもおかしくない。
でも——あの目。
品定めする目。モノの価値を測る目。
ヴァルディスと同じ種類の、計算する目。
あたしは何も言わなかった。シオンは気づいていない。
ダンジョンの入口が見えてきた。
守る。この少年を。
ダンジョンの深層からも。世界の異変からも。そして——あの目から。
割に合うかどうかは、関係ない。
隣を歩くこの少年の手が届く距離に、あたしはいる。
——割に合わない。だから、行く。
——第1部「『割に合わない』を選ぶまで」完——
第1部「『割に合わない』を選ぶまで」完。
20話、ありがとうございました。
第2部では——世界規模に広がる異変、シオンを狙うもう1人の影、
そして新たな仲間との出会いを描く予定です。
近日開始予定。
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