優しさの在処
【優しさの在処】
シオンの回復3週間目。
肋骨のヒビはほぼ完治した。明日から通常の訓練を再開できる。
夜。シオンの部屋。
2人で月次データの共有をしていた。テーブルにノートとグラフを広げて、数字を突き合わせる。
データを整理し終えた。
結論。ダンジョンの状況は——このままでは持たない。ギルドが動き始めたが、速度が足りない。銀ランクの討伐隊では、第5階以深の深層種に対処できない。
金ランク相当の火力が必要だ。
この街に、金ランクはアウレクスの所属冒険者しかいない。そしてアウレクスは——動かない。
あたしの指輪を外せば——金ランクを超える火力が出る。
「……イグリットさん」
「何」
「今日、計算がゆっくりです」
「——何のこと」
「いつもは、データを見た瞬間に分析が始まるのに。今日は——3回、手が止まりました」
見抜かれている。
この少年は、あたしの計算速度の変化を検知する。他の誰も気づかないことを。
「……考えていることがある」
「聞いてもいいですか」
あたしは左手の指輪を見た。
シオンの目が、指輪に移った。
「この指輪を——外すかどうか」
シオンの表情が変わった。
「外したら——何が起きるんですか」
「魔力の制限が解除される。出力が——たぶん、今の10倍以上になる。深層種でも倒せる」
「それなら——」
「でも、制御できるかわからない。8歳の時に外した時は——暴走した。建物を壊した。人を怪我させた」
シオンが黙った。
「この指輪が、あたしの魔力を圧縮してる。圧縮された環境で、あたしは精密制御を覚えた。数字で考える思考を身につけた。感情で魔力が揺れないように——全部、計算で処理する癖がついた。つまり——」
言葉が重い。
「あたしの性格は、この指輪が作った。外したら——今のあたしが消えるかもしれない」
沈黙。
「——消えませんよ」
シオンが言った。静かに。でも、はっきりと。
「なんで——わかるの」
「わからないです。でも——イグリットさんは、指輪を外す前から、僕に『大丈夫』って言ってくれました。あの渓谷で」
「それは——」
「指輪をしたままで。制限の中で。計算じゃなくて——そう言ってくれた。あれは指輪が作った言葉じゃないです」
あたしの思考が止まった。
渓谷の「大丈夫」。あの言葉は——計算ではなかった。精密制御の産物でもなかった。
「イグリットさんの優しさは、指輪の外にあります」
あたしは何も言えなかった。
反論の式が、起動しない。
シオンが立ち上がった。台所に向かった。
「——夜食、作りますね。オニオングラタンスープでいいですか」
「……いい」
シオンが台所で鍋に火をかけた。飴色玉ねぎの甘い匂い。コンソメの匂い。
あたしはテーブルに突っ伏した。
——「優しさは、指輪の外にある」。
そんなこと、言われたことがない。8年間。誰にも。
根拠がない。データがない。
でも——否定できない。
オニオングラタンスープが出てきた。焦げたチーズの香ばしさ。出汁の染みた黒パンが下に沈んでいて、身体の芯まで温まった。
「おいしい」
「よかった」
シオンが笑った。
あたしの中で、何かが——ゆっくりと、組み替わっている。指輪を外す恐怖が消えたわけではない。でも——恐怖の隣に、別のものが立っている。
この少年の言葉。根拠のない言葉。
でも——指輪より確かに、あたしの中に残っている。
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