渓谷の邂逅と、解けた布
【渓谷の邂逅と、解けた布】
迂回路はない。渓谷区間は一本道だ。引き返せばエルドヴァレスに戻れる。だが、村は——。
「イグリット。アタシが偵察する」
リィナが壁際に身を寄せて、渓谷の奥に消えていった。5分後、戻ってきた。顔が白い。
「いた。300メートル先の広場。——でかい。灰角獣の倍はある。6本脚。暗い紫の体表。頭に——枝分かれした角」
あたしの知識に照合した。該当なし。図鑑にない。中層種の灰角獣よりさらに上——深層種。
「引き返すべき」
「引き返したら、あいつがこっちに来る可能性は」
「……ある」
「逃げたら、次に通る誰かがぶつかる」
シオンが静かに言った。
「村に薬が届かないと、困る人がいます」
馬鹿だ。覚悟で物理法則は曲がらない。
だが——あたしもこの道を通さなければ、ジグの鍛冶屋にもエルサの診療所にも物資が届かない。
「——1つだけ方法がある。あたしが引きつけて、その間に2人が荷車ごと渓谷を通過する。抜けたら待ってて。あたしが追いつく」
「無理だろそれ——」
「倒す必要はない。足止めするだけでいい。5分稼げば、渓谷を抜けられる」
3人が動いた。リィナが誘導、シオンが突破、あたしが火力。
渓谷の広場に踏み込んだ。
暗紫色の巨体。体長5メートル超。6本の太い脚。頭部に枝分かれした角が3対。
全身から放たれる魔力が重い。指輪が灼ける。今までで最も強い反応。
1発目。全力の魔力弾を顔面に。——効かない。表皮がはじいた。
2発目。角の付け根に。——浅い。
3日間の消耗が残っている。魔力の回復が完全ではない。出力が足りない。
渓谷の壁を利用した反射攻撃に切り替えた。三角反射で目を狙う。1回目は外れた。深層種の反応速度が灰角獣より数段速い。
2回目——右目にかすった。怒りを買った。
突進。6本脚の加速力が異常だ。壁面を蹴って跳び、頭上を越える。着地。尾が横薙ぎに来た。伏せて回避。風圧で髪が乱れた。
荷車が渓谷を半分通過した。あと2分。
深層種が方向を変えた。あたしではなく——荷車に。
弱い方を狙う。魔物としての本能。
割り込んだ。正面に立って、至近距離から喉元に叩き込む。入った。少しだけ。怯む。
代わりに距離が詰まった。角がジャケットの裾を裂いた。あと1歩遅ければ脇腹を抉られていた。
渾身の一撃を前脚に。膝の関節が折れた。深層種が体勢を崩す。
——今。全魔力を集中。喉元に——。
深層種の尾が振り回された。
死角。左側から。前方に集中していた意識の隙を突かれた。
避けられない。
——シオンが、いた。
荷車を置いて走ってきていた。あたしと尾の間に。剣を両手で構えて——尾撃の軌道を、剣の腹で逸らした。
力ではなく——角度。訓練で何百回も反復した動き。
シオンの腕が震えている。灰角獣の尾撃と深層種の尾撃では桁が違う。
でも、立っている。
——どうして。
「荷車から離れるな」と言った。「何があっても動くな」と言った。
なのに。
後であの少年の目を思い出した時、あたしは気づいた。
シオンは——怖かったのではない。怖いことの先にいた。
荷車の横で動けなかった自分に——耐えられなかったのだ。守られるだけの自分に。あたしが血を流して、傷を負って、それでも前に立っている姿を、後ろから見ているだけの自分に。
「また後ろにいるだけか」——その声が、恐怖より先に、足を動かした。
あの少年の弱さは、技術でも魔力でもなく——「何もできない自分」を見続けることだったのだ。
0.5秒。シオンが稼いだ隙で十分だった。
全魔力を右手に凝縮して、深層種の喉元に叩き込んだ。圧縮率を極限まで上げた一撃。
深層種の喉を貫通——しなかった。深い傷。致命傷ではない。だが——。
深層種の目に――ぐらつきがあった。同時に衝撃波で、シオンの身体が崖壁に叩きつけられた。
右腕の布が——衝撃で解けた。藍色の布が地面に散らばる。
シオンの右腕が、露出していた。
青い紋様。
皮膚の下を脈のように走る、青い線。肩から手首まで。そして——光っている。微かに。でも確実に。青白い光を放っている。
深層種が——止まった。
あの巨体が。6本の脚で。シオンの腕から放たれるエネルギーを——凝視している。
怯えている。
あたしの指輪が、今までにない反応を示した。振動している。シオンの紋様が放射するエネルギーと、指輪の下に封じられた魔力が——共鳴している。
深層種が後退した。1歩。2歩。そして——逃げた。片足を引きずりながら、渓谷の奥に向かって。
あたしの思考が止まった。
計算が止まった。
初めて——処理が、追いつかない。
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