嘘と繊維
【嘘と繊維】
翌日。
昼下がり、宿を出た。今日は週2回の訓練日。午後の訓練場までの道を歩きながら、あたしは昨夜のことを覚えていた。シオンの干し肉を齧った感覚。段ボール味を選ばなかった自分。名前をつけるのはまだ先——と独白したこと。
そこまで言っておいて、翌日には何事もなかった顔で訓練場に向かう。あたしらしい。
ジャケットの左の裾を指でなぞった。一昨日、灰角獣の角が掠った跡。布は裂けたまま。皮膚は無傷だが、動くたびに裂け目から風が入る。宿で縫い直す時間がなかった。
魔力の消耗はまだ残っている。あの戦闘は、指輪つきの「天井」を叩いた。
訓練場に着いた。シオンが先に来ていた。
あたしを見つけて、ぱっと顔を明るくして——それから、心配そうな顔に変わった。
「イグリットさん。——ジャケット、直してないんですか」
シオンの目が、あたしの左の裾に向いている。裂けたまま歩いているのを、この少年は見逃さない。
「あとで縫う。動くのに支障はない」
「でも、一昨日——」
「契約通りの仕事をしただけ」
あたしの口からいつもの台詞が出た。いつもの流し方。「契約」という言葉で全部の説明をまとめる。便利な言葉だ。
「嘘ですね」
あたしの声が止まった。
シオンがあたしを見ていた。犬みたいな目じゃなかった。穏やかだけど、逸らさない目。街道で灰角獣の前に立った時の目と同じ種類の——静かな覚悟。
「嘘です。契約じゃなかった。イグリットさんは——計算の前に動いてました」
「……何を根拠に」
「灰角獣が荷車に向かった時。イグリットさんは割り込んで、至近距離から撃ちました。あれは護衛の最適解じゃないはずです。距離を取って撃った方が安全なのに——僕の近くにいるために、わざと近づいた」
あたしは口を開いて、閉じた。
反論の式が、組み上がらない。
「あと——『助かった』って言ってくれた時。あの声は、護衛が依頼主に言う声じゃなかったです」
シオンの声は責めていない。ただ、事実を並べている。あたしがいつもやるように——観察した事実を、正確に。
この少年は、5ヶ月間あたしの隣にいて、あたしの言葉のパターンを学習した。あたしの「嘘」を見分けられるようになった。素材処理も、剣の角度も、あたしの言い訳も——全部、同じ精度で学んでいる。
昨夜、独白した「その答えに名前をつけるのは——もう少し先でいい」。
先でいい、と思っていた。——でも、この少年は、あたしが名前をつけるより先に、見抜いている。
「……」
あたしは何も答えられなかった。
代わりに、木剣を取り上げた。
「訓練する。——準備」
「はい」
シオンが木剣を構えた。あたしも構えた。
打ち込み。受け。反復。いつものリズム。だが、シオンの目には、さっきの「嘘ですね」の続きが残っている。追及はしない。でも、引っ込めてもいない。
1時間の訓練を終えた。汗。息。水筒の水。
あたしは水筒を下ろして、シオンに向かって言った。
「……この後ゴルドの店に用がある。先に上がる」
「はい。——いってらっしゃい」
訓練場を出た。
下層の路地。午後の冒険者街。焼き肉の匂い。香辛料が煙っている。
ポーチの中に、小さな袋が1つ入っている。訓練中にシオンの布からほつれた1本の繊維。数日前に回収した。護衛対象の装備素材の把握は当然の判断——いや、もう、この言い訳はやめる。
気になったから調べる。それだけ。
ゴルドの店に着いた。扉の鈴がちりんと鳴った。
「イグリット。2日連続か。——今日は何だ」
「見てほしいものがある」
あたしは繊維の入った袋をカウンターに置いた。
ゴルドが袋を受け取って、繊維を光にかざした。
「藍染めの手織り繊維——だが、普通の藍染めじゃないな。何か混ぜ物がある」
ゴルドが作業台の引き出しから、拡大鏡と薬品を取り出した。繊維の一部を溶液に浸す。色が変わった。薄い青から、金属光沢のある灰色に。
「金属粉末が練り込まれてる。染料に混ぜて、繊維ごと染めてある」
「金属の種類は」
「見たことない組成だ。ちょっと待て——」
ゴルドが棚の奥から、分厚い冊子を引っ張り出した。素材屋の鉱石カタログ。古い版。埃を被っている。
ページをめくる。ゴルドの太い指が、リストの上を辿っていく。
「——これだ。蒼鉛石。ダンジョン深層産の鉱物。現在は流通していない。20年以上前に最後の採掘記録がある」
「蒼鉛石」
「深層の第15階以深で採れた希少鉱物だ。特殊な性質がある——魔力の伝導を遮断する。昔は高級防具の裏地に使われていたが、採掘が困難で供給が途絶えた。今、市場に出たら——金額がつけられないレベルだ」
あたしは動けなかった。
蒼鉛石。深層鉱物。魔力の伝導を遮断する性質。
——だから布の下が探知に映らないのか。深層鉱物の粉末が、布全体に練り込まれて、魔力の遮蔽層を形成している。
そして——あたしの指輪の素材も、ダンジョン深層の鉱石から精製された特殊合金。指輪は魔力を「圧縮」する。布は魔力を「遮蔽」する。機能は違うが、素材の系統は——同じ。
「嬢ちゃん。この繊維、どこで手に入れた」
ゴルドが目を細めている。素材屋としての嗅覚が、この繊維の異常さを嗅ぎ取っている。
「……知人の私物から。本人は素材を知らない」
「知らないのか? 蒼鉛石を手に入れられる人間は、現在のエルドヴァレスにはほぼいないぞ。20年以上前に深層で働いていた人間か、その関係者でないと——」
「ゴルド」
あたしは静かに言った。
「この件は——口外しないでほしい」
「……わかった。ただ、嬢ちゃん」
ゴルドがカタログを閉じた。
「蒼鉛石を個人で持ってる人間は、事情がある。深層に関わった人間ってのは、大体——何かを背負ってる。あの布の持ち主が誰か知らんが、あんまり突っ込みすぎるなよ」
「……突っ込まない。ただ、知っておきたかっただけ」
ゴルドが何か言いかけて、やめた。
あたしは店を出た。
日差しが眩しい。下層の午前。鍛冶屋の槌音。屋台の呼び込み。
ポーチの中で、蒼鉛石のデータが入った頭が回っている。
指輪と布。圧縮と遮蔽。同じ深層の鉱物。
あたしとシオンの身体に、同じ根を持つ2つの枷。
——そしてさっき、シオンはあたしの嘘を壊した。
5ヶ月前の計算が、頭に浮かんだ。
護衛料1000レイド。素材全譲渡。暗算3秒。「割に合う」。
あの計算は完璧だった。ただし——足りない変数があった。
シオンが「嘘ですね」と言った時の声が、頭の中で反響している。
あの声には怒りがなかった。失望もなかった。ただ——「知ってます」という静かな確信があった。
あたしの嘘を、この少年はいつから見抜いていたのだろう。
1回目の護衛の時からか。2回目か。それとも——最初の焚き火の夜からか。
考えても答えは出ない。
——1ヶ月以上前の野営で、シオンが言った言葉を思い出した。「母が作ってくれたもので。生まれた時からずっと巻いてます」。あたしは追及しなかった。データが揃っていなかったから——と、その時も言い訳した。
今日、データが1つ埋まった。蒼鉛石。
次の訓練の日に、もう少し踏み込んでみる。仕事のこと。布の由来を。シオンがどこまで知っているかを。
「突っ込みすぎるな」とゴルドは言った。でも——知らないまま隣にいることの方が、あたしには怖い。
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