見張り台の嘘と、鳴った腹
【見張り台の嘘と、鳴った腹】
トルテッドの村に着いた。
柵が壊れていた。
西側の柵が、2箇所。杭が折れて、板が散乱している。先週、夜間に角猪の群れが突入したらしい。ジグが応急修理をしているが、木材が足りない。
村の空気が、前回までと違う。
子供たちがはしゃいでいない。大人たちの顔に余裕がない。エルサの医療小屋の前に、3人の農夫が包帯を巻いて座っている。
シオンが薬品を降ろしながら、村長と話している。あたしは柵の外周を歩いた。
爪痕を確認する。角猪。岩蜥蜴。——もう1種。3本爪の、幅広い痕。浅いが、柵を引き裂いた形跡がある。浅層種の力ではない。
灰角獣——ではない。爪の間隔が違う。灰角獣のデータは今日、嫌というほど取った。これは別の何かだ。記録に残す。ギルドに報告する項目が、また1つ増えた。
ジグが杭を打ちながら言った。
「先週の夜は——ひどかった。角猪が5頭、同時に柵に体当たりしてきた。今までは1頭か2頭だったのに。群れで来るようになった」
「柵の素材は」
「普通の木材だ。本当は結界石を埋め込みたいが——金がない。ギルドに申請してるが、返事がない」
結界石。魔物除けの鉱物。設置にはギルドの許可と、かなりの費用がかかる。小さな村の予算では——。
トルテッドばあちゃんが、あたしとシオンに夕食を出してくれた。煮込みシチュー。3回目だが、今回は具が少ない。
「すまないねえ。畑の野菜が——魔物に荒らされて、あんまり採れなくて」
トルテッドばあちゃんが申し訳なさそうに笑う。あたしは黙ってシチューを食べた。具が少なくても、味は変わらない。ばあちゃんの味だ。
シオンが「十分です。美味しいです」と言って、ばあちゃんの手を握った。ばあちゃんの目に涙が浮いた。
夜。村の外れの見張り台に2人で上がった。
木組みの台。高さ3メートルほど。村の周囲を見渡せる。月明かりの下、畑と森の境界線が見える。風が止んでいる。虫の声だけが、夜の底をゆっくりと流れている。
シオンが隣に座った。足をぶらぶらさせている。しばらく、2人とも黙っていた。
「イグリットさん」
シオンの声が、虫の声に混じった。静かだった。
「このペースだと——この村は、持ちますか」
あたしはデータを見せるか迷った。
見せることにした。
「正直に言う。このペースなら、3ヶ月後にはこの村の防衛は維持できなくなる。柵では足りない。銀ランクの常駐護衛か、住民の一時避難が必要になる。ギルドが結界石の設置を許可すれば別だが——」
「許可は出なさそうですか」
「出ない。小さな村1つに結界石を配備する予算の優先度は低い。エルドヴァレス周辺の村は20以上ある。全部に配備するには——」
「……そうですか」
シオンが月を見上げた。静かな表情。怒っていない。悲しんでいない。ただ——考えている。
「イグリットさんは——なぜ、続けてくれるんですか。この護衛」
来た。この質問。
合理的な理由はいくらでもある。素材収入が高い。データ収集に最適。戦闘経験の蓄積。銀ランクの昇格試験に向けた実績。全部、本当だ。
でも、今日——灰角獣の尾撃からあたしを守ったシオンの姿を見た時、あたしが感じたのは安堵だった。「よかった、この人が無事で」。
あたしの計算モデルに、「安堵」の関数はない。
「……割に合うから」
いつもの答え。でも、声がいつもより小さかった。自分でもわかる。
シオンが——笑わなかった。いつもなら「そうですか」と笑うのに。
月明かりの中で、手帳を取り出した。ページをめくる音が、静かな夜に響いた。
「嘘ですね」
あたしは息が止まった。
シオンがこちらを見ていた。穏やかな目。でも、真っ直ぐな目。手帳を膝の上に開いたまま。
「割に合うからじゃないですよね。灰角獣がいる道を、1500レイドで歩くのは——割に合わないです。僕のメモのデータで計算しても、報酬と危険が見合ってない。灰角獣の討伐報酬を足しても、命のリスクには——」
一拍、間があった。
「——イグリットさんなら、そのくらいわかってるはずです」
反論できない。事実だ。灰角獣が出る街道の護衛は、報酬を3倍にしても割に合わない。あたしの計算が間違っているわけがない。
間違っているのは——答えの方だ。
あたしが教えたデータの読み方。あたしが見せた計算の仕方。それを使って、この少年はあたしの嘘を突き崩した。
何も返せなかった。沈黙が続いた。
——シオンの腹が鳴った。
「……すみません」
シオンの顔が赤くなった。深刻な会話の最中に、腹の虫が空気を読まなかった。
あたしは1拍おいて——。
あたしの腹も鳴った。
2人とも、無言。
月明かりの見張り台で、深刻な顔をした2人の腹が、同時に空腹を主張している。
シオンが耐えきれず笑った。口を押さえて、肩を震わせて。
「笑うな」
あたしの口元が緩んでいた。緩んでいることを自覚していた。止められなかった。
「——ばあちゃんのシチュー、おかわりもらってくるか」
「はい。——2杯ずつ」
見張り台を降りた。
さっきの質問の答えは、出ていない。出ていないが——出ていないことが、答えになっている。
「割に合うから」が嘘だと、わかるようになったのか。この少年が。あたしの計算を使って、あたしの嘘を。
嘘が通じなくなっている。
それは——怖いことだ。
怖いはずなのに、怖くない。
シチューをもらいに行く足取りが、軽い。
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