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「割に合わないので、辞めます。」 ——元金ランクの天才魔道士、全部計算で解決したかったのに計算外の相棒ができました——  作者: わんだ
割に合わない

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街道の灰角獣と、角度の答え

【街道の灰角獣と、角度の答え】


 渓谷の岩陰から、それが姿を現した。


 灰角獣。体長3メートル。灰黒色の体表。2本の角。

 ダンジョンの第5階にいたのと同じ種。それが——街道にいる。地上に。


 内と外で、同じ魔物が。フィルターの劣化が地上にまで及んでいる。

 データとしてはわかっていた。でも、目の前に現れると——重さが違う。


 灰角獣がこちらを見た。こちらというか、荷車を見ている。獲物として認識されている。


「シオン。荷車から離れるな。何があっても動くな」

「——はい」


 シオンの声が硬い。初めて見る魔物だ。角猪とは格が違う。あの体躯、あの圧。怖いはずだ。

 後ろを振り返る余裕はない。でも探知でわかる。シオンの心拍が跳ね上がっている。呼吸が浅い。足が地面に張りついたように動いていない。

 でも、逃げない。立っている。


 あたしは右手に魔力を集中させた。

 指輪が——熱を持ち始めた。ダンジョンの時と同じだ。深層の魔力に反応している。

 あの時。50メートル先の灰角獣に魔力を向けて——1発も撃てなかった。赤い光。崩れる壁。8年前のフラッシュバックに潰されて、自分で魔力を叩き潰した。

 恐怖が、一瞬だけ走った。


 後ろを見た。シオンが立っている。荷車の横で、剣を握って、震えながら立っている。

 あの少年がいる。あたしの後ろに。


 ——あの時は1人だった。1発も撃てなくて、壁にもたれて、冷たい石の温度だけが背中にあった。

 今は違う。


 指輪の熱を、押さえつけた。制御する。あたしの魔力だ。暴走はさせない。

 ここは渓谷の開けた道だ。ダンジョンのような地形の利がない。後ろに荷車とシオンがいる。退路を確保しながら戦う余裕はない。

 だから——前に出る。


 灰角獣が突進してきた。

 壁面反射——渓谷の崖壁に魔力弾を跳ね返して、灰角獣の横腹に当てる。角度計算は0.3秒。命中。だが、表皮が硬い。ダメージは浅い。


 2発目。今度は正面から、角の付け根を狙った。灰角獣が首を振って回避。学習が早い。中層種の知能だ。


 3発目。壁面反射の角度を変えて、背面を狙った。灰角獣が身を捩って半分だけ避けた。——1回見た攻撃は、角度が変わっても警戒する。浅層種にはない判断力。

 4発目。脚の関節を狙う。右前脚に命中。わずかに減速。だが止まらない。


 灰角獣が方向を変えた。あたしではなく——荷車に向かった。

 弱い方を狙う。魔物としての本能。


「——っ!」


 あたしが割り込む。灰角獣の前に立って、至近距離から5発目を叩き込む。顔面に。灰角獣が怯む。方向をあたしに戻した。

 代わりに、距離が詰まった。灰角獣の突進を完全に避けきれない。角がジャケットの裾を裂いた。浅い。でも、1歩遅ければ脇腹を抉られていた。


 6発目。渾身の一撃を左前脚に。膝の関節が折れた。灰角獣が体勢を崩す。


 ——今。終わらせる。

 全魔力を集中。喉元に——。


 灰角獣の尾が振り回された。

 死角。左側から。あたしの注意が前方に集中していた隙を、尾撃が突いた。中層種の知能。最後の最後で、こいつはあたしの死角を読んでいた。


 避けられない。

 身体が強張った。インパクトの瞬間を覚悟した——。


 金属音。


 シオンが、いた。

 あたしと灰角獣の尾の間に。剣を両手で構えて——尾撃を受けていた。

 受けたというより、叩いた。尾の軌道を、剣の腹で横に逸らした。力ではなく——角度。


 さっき、角猪の突進をずらしたのと同じ動き。訓練で何百回も反復した動き。

 力じゃなくて角度。あたしが教えた言葉。

 訓練場で木剣が跳ねた日を思い出した。あの時、シオンの手首が無意識に衝撃を逃がそうとしていた。荒くて、形になっていなかった芽。それが——ここで花を開いた。


 シオンの腕が震えている。灰角獣の尾撃と角猪の突進では、桁が違う。身体が悲鳴を上げているはずだ。

 でも、立っている。剣を離していない。

 動くなと言ったのに。足が動かなかったはずなのに——動いた。あたしのために。


 0.5秒。その隙で十分だった。

 あたしは全魔力を右手に凝縮して、灰角獣の喉元に叩き込んだ。


 精密制御の限界。圧縮率を極限まで上げた一撃。

 灰角獣の喉を貫通した。


 巨体が崩れ落ちた。渓谷の地面が震えた。


 静寂。


 シオンの手から、剣が滑り落ちた。乾いた金属音が渓谷に跳ね返った。

 膝が折れた。地面に手をついた。肩で息をしている。

 あたしの足も、少し笑っていた。


 あの日を思い出していた。ダンジョンの第5階。灰角獣の前で1発も撃てず、通路を逃げて、壁にもたれた。石の冷たさが背中に染みた。手が震えて止まらなかった。あたしの後ろには誰もいなくて、あたしの前にも誰もいなかった。

 今は——この少年が、地面に手をついて息をしている。あたしの代わりに、灰角獣の尾を受けた身体で。

 シオンがあたしを見た。「大丈夫ですか」と聞こうとして、声が出ていない。口だけ動いている。


 あたしは息を整えた。右手の震えを押さえた。


「——助かった」


 シオンの目が大きくなった。


「動くなと言ったのに」

「すみませ——」

「でも、助かった。あの尾撃はあたしの死角だった。——ありがとう」


 ありがとう。何度目かわからない。でも、今回が一番——重い。

 命を救われた。計算ではなく、この少年の判断で。


 シオンの目に涙が滲んだ。泣くほどのことか——いや、わかる。怖かったのだ。あの灰角獣の前に立つのは。あたしでさえ、ダンジョンでは立ちすくんだ。鉄ランクのシオンにとっては——死と隣り合わせだった。

 それでも、動いた。あたしのために。


「泣くな。素材処理が先」

「泣いて——ません」

「泣いてる」


 シオンが袖で目元を拭って、鼻をすすった。それから——笑った。震えながら、笑った。

 あたしは灰角獣の死骸を見下ろした。


 体内から漂う魔力残滓を分析した。ダンジョン第5階の爪痕と同じシグネチャ。同じ系統のエネルギー。

 内と外の灰角獣は、同じ根源から来ている。フィルターの劣化が、地上にまで達している。


 証拠が、また1つ増えた。


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