灰色の角と、黒い記憶
【灰色の角と、黒い記憶】
リィナを地上の医療所に送り届けた後、あたしは単独でダンジョンに戻った。
馬鹿な判断かもしれない。でも、灰角獣が第4階にまで上がってきているなら、他の冒険者が知らずに遭遇する可能性がある。第4階は銅ランクの活動範囲だ。灰角獣を知らない冒険者が鉢合わせたら——リィナ以上の被害が出る。
偵察だけでいい。位置を確認して、ギルドに報告する。
第5階、東側。空白区画に入った。
静かだ。前回より、さらに静かだ。苔の発光が弱い。空気が重い。
探知を飛ばした。
——いる。200メートル先。1体。もう1体は探知の範囲外。
近づいた。壁際を音を殺して進む。リィナの真似だ。斥候ほど上手くはないが、魔力の出力を抑えれば気配は消せる。
100メートル。70メートル。50メートル。
部屋の入口が見えた。前回、眠っている灰角獣を覗いた部屋。
今回は——起きていた。
灰角獣がこちらを見ていた。灰黒色の体表。2本の角。口元の牙。体長3メートル。
目が合った。
右手に魔力を集中させた。偵察のつもりだった。でも、目が合った以上——。
戦えるか。この通路は狭い。灰角獣の体躯が壁に当たる。機動力が制限される。あたしの精密魔法は狭い空間でこそ活きる。
角猪の10倍以上。指輪の制限下では五分五分か、それ以下。でも、地形の利がある。やれないことはない。
右手に赤い光を灯した。圧縮した魔力弾。指輪の制限下で出せる最大威力——。
指輪が熱くなった。
不意に。突然に。
灰角獣と対峙した瞬間、指輪の下であたしの魔力が跳ねた。灰角獣から漂う魔力残滓——深層の魔力——に、指輪が反応している。前回、眠っている灰角獣を遠くから覗いた時とは比較にならない。起きている灰角獣の放つ魔力は、眠っている時の数倍濃い。
その濃密な深層の魔力に、あたしの魔力が共鳴しようとしている。制限を超えて、広がろうとしている。
押さえつけた。意識的に、魔力を沈める。
——沈まない。
金属が肌を焼くような熱。指輪が赤く発光している。右手に集中させた魔力弾が、制御の外で膨張し始めた。密度が上がる。圧縮率が勝手に——。
赤い光。
崩れる壁。
誰かの、悲鳴。
——フラッシュバック。
0.3秒。それだけの映像が、あたしの頭の中を駆け抜けた。
8年前の光景。あたしの手から放たれた——制御できなかった、赤い光。
右手の魔力弾を、消した。
反射的に。全力で。自分の魔力を自分で叩き潰した。
手が、止まった。
灰角獣がこちらを見ている。30メートル先。動かない。あたしの魔力が消えたことで、警戒を解いたのか。それとも——あたしを脅威と見なしていないのか。
どちらでもいい。問題はそこじゃない。
あたしの足が、動かない。
右手に赤い光を灯せない。灯したら——さっきの膨張が、また起きる。今度は制御できる保証がない。この狭い通路で魔力が暴走したら、天井が崩れる。あたしが潰れる。
それだけならまだいい。
あたしの暴走で——ダンジョンの壁が壊れたら。上の階にいる冒険者に被害が出たら。
8年前と、同じことが起きる。
灰角獣が、首を巡らせた。あたしに興味を失ったのか、部屋の奥に向かって歩き始めた。背を向けている。
今なら逃げられる。
足が動いた。後退。音を殺して。壁に手をついて。
50メートル。100メートル。200メートル。空白区画を抜けて、浅層の通路に戻った。
壁にもたれた。
背中が冷たい。石の壁が体温を吸い取っていく。護衛の時なら、背中のこの距離にはシオンの荷車がある——何を考えている。ここはダンジョンだ。
手が震えている。
戦闘で消耗したわけじゃない。1発も撃っていない。1発も。
灰角獣の前に立って、魔力を集中させて——撃てなかった。自分で消した。
倒せたかもしれない。五分五分でも、地形の利があった。リィナを傷つけた魔物を、あたしが止められたかもしれない。
なのに——動けなかった。8年前の映像が、あたしの手を止めた。
指輪の「壁」が、揺らいだ。8年間、一度も揺らがなかったものが。灰角獣の深層魔力に反応して、あたしの制御を超えようとした。
今は違う。あたしは制御できている——はずだった。指輪がある限り、あれは起きない。そう信じていた。
信じていたものが、30メートルの距離で崩れかけた。
データを取る。灰角獣の位置、行動パターン、魔力残滓の濃度。
手が動いている間は冷静でいられる。データに集中すれば、記憶は後回しにできる。
帰ろう。報告しなければ。灰角獣は第5階にいる。少なくとも1体。もう1体は探知の範囲外。第4階にまで行動範囲を広げている。
それと——第5階の奥に、もっと大きな何かがいる。リィナが言った通り。
あたしの手で、対処できたはずのものが——対処できなかった。
実力の問題じゃない。あたしの中にある、8年前の傷の問題だ。
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