消えない震えと、段ボールの味
【消えない震えと、段ボールの味】
ダンジョンを出た。午後の光が目に痛い。
ギルドの窓口で灰角獣の目撃を報告した。第5階東側、空白区画の最奥。体長3メートル、灰黒色、角2本。起きて活動中。
「あの——直接ご覧になったんですか?」
「50メートルの距離から。こちらには来なかった」
「戦闘は」
「していません。偵察のみです」
偵察のみ。
嘘ではない。結果的に、戦闘はしていない。1発も撃っていない。
——撃てなかった、と言うべきだ。正確には。
「……報告は受理します。灰角獣が第5階に出現していること、別途調査報告書にもまとめていただけますか」
「書きます」
報告書は明日書こう。今は——手が震えている。
戦闘で消耗したわけではない。魔力はほとんど使っていない。震えているのは、あのフラッシュバックの残響だ。8年前の映像が、まだ頭の裏に貼りついている。
ギルドを出た。安宿に向かう。足が重い。
安宿の前に着いた。
鍵を出そうとして——気づいた。扉の横に、人影がある。
シオンが立っていた。
あ、と思った。今日は訓練の日だ。昼食を一緒に食べる約束だった。あたしがダンジョンに急行して、全部すっぽかした。
シオンがこちらを見た。笑顔が浮かびかけて——消えた。
「——イグリットさん。何かあったんですか」
あたしの顔色が悪いのだろう。リィナの血の匂いが服についているかもしれない。
「ダンジョンで、少し——消耗した」
嘘ではない。全部ではないが。
シオンは追及しなかった。あたしの顔を見て、何かを判断して、別のことを聞いた。
「ご飯、食べましたか」
「……段ボール味の干し肉バーを1本」
シオンの表情が、困惑から絶句に変わった。
「それは——ご飯じゃないです」
「カロリーは摂取した」
「カロリーの問題じゃないです」
シオンがあたしの手首を掴んだ。引っ張られる。食堂に向かって。
「ちょっと——」
「行きますよ。ちゃんとしたご飯を食べてください」
力が強い。訓練の成果が、こんなところで発揮されている。あたしを引きずるために使うな。
食堂に入った。夕方の閑散とした時間帯。隅の席に座らされた。
シオンが受付で定食を2つ頼んだ。あたしの分の副菜も追加している。
「頼んでない」
「頼んでなくても必要です。イグリットさん、放っとくと干し肉だけで1週間生きるでしょ」
否定できない。アウレクスを辞めた直後の1ヶ月は、実際にそうだった。
定食が来た。粗挽き肉の焼き物。豆のスープ。硬いパン。副菜は青菜の炒め物と、根菜の酢漬け。
いつもの味だ。下層の飯。安いが量がある。
シオンが「いただきます」と手を合わせた。あたしは無言で肉にかじりついた。
噛んで、飲み込む。2口目。3口目。
味がする。段ボールじゃない。肉の味。油の焦げ。胡椒。
シオンは何も聞かない。
なぜダンジョンに行ったのか。なぜ顔色が悪いのか。なぜ手が震えているのか。
1つも聞かない。ただ、向かいに座って、同じ速度で食べている。
あたしが話さないと決めたことを、無理に聞こうとしない。
リィナなら嗅ぎ回る。アウレクスの連中なら情報として利用する。
シオンは——ただ、隣にいる。
食事が終わる頃、震えが止まっていた。
いつ止まったか、わからない。肉を食べている間か。スープを啜っている間か。シオンが何も聞かずにいてくれた、その沈黙の間か。
「——ありがとう」
口から出た。計算にない言葉。2回目——いや、3回目か。数えていないが、前より自然に出た。
シオンが驚いた顔をして——それから笑った。
太陽。
今日は曇り空だったはずだが。
「また明日、訓練しましょう。今日の分」
「……うん」
安宿に戻った。ベッドに倒れた。
天井の染み。7つ。
灰角獣は倒せたかもしれない。五分五分でも、地形の利があった。
なのに——あたしは1発も撃たなかった。フラッシュバックが来た瞬間、自分で魔力を消した。
正しい判断だ。制御を失いかけた状態で撃てば、何が起きるかわからない。撤退は合理的だった。
——合理的だったはずなのに、悔しい。
あたしは——いつかこの少年にも、あの日のことを話す日が来るのだろうか。
話すべきなのか。話したら——どうなる。
あたしを「小さな厄災」の本当の意味で見る目。
あの太陽みたいな笑顔が、曇る目に変わったら。
……考えるのはやめよう。
今日は寝る。明日、訓練の分を取り戻す。報告書も書く。
やることがあるうちは、考えなくていい。
目を閉じた。
左手の指輪が、まだ少しだけ温かい。
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