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「割に合わないので、辞めます。」 ——元金ランクの天才魔道士、全部計算で解決したかったのに計算外の相棒ができました——  作者: わんだ


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浅層の異変と、見たことのない牙

【浅層の異変と、見たことのない牙】


 リィナからの連絡は、4回目の護衛依頼の前日に来た。


「イグリット。第5階で動きがあった。今日、来れるか」


 ギルドの掲示板の裏に貼られた走り書き。リィナとの連絡手段はアナログだが、確実だ。斥候は紙と暗号を好む。


 午前中にダンジョンに入った。第5階まで1人で降りて、東側の分岐で待つ。10分後、リィナが壁の陰から音もなく現れた。


「早いな」

「何があった」

「空白区画が広がってる。前回の2倍。通路3本分が完全に空になった。しかも——痕跡が新しい」


 あたしたちは空白区画に向かった。

 前回は50メートル四方だった空白が、確かに広がっている。100メートル以上。通路が3本、部屋が2つ、完全に魔物がいなくなっている。

 床の爪痕も増えていた。前回より深い。前回より大きい。


「これ、前回と同じ個体か?」

「サイズが違う。前回より一回り大きい」


 あたしは爪痕に手をかざした。魔力残滓を読む。

 ——濃い。前回より、はっきりと感じる。深層の魔力。重くて、密度が高くて、浅層のものとは明らかに異質。

 指輪が熱を持った。前回と同じだ。指輪の下で、圧縮された魔力が波打つ。


「リィナ。この先——何かいる」

「わかってる。さっき偵察した時、奥の部屋で——気配があった。寝てる。まだ」


 あたしは探知を飛ばした。

 空白区画の最奥、広い部屋の隅に——いる。大きい。魔力の塊。呼吸するように魔力が脈動している。


「見るだけ見るか。姿を確認したい」

「2人でか?」

「遠距離から。気づかれたら即撤退」


 リィナが頷いた。壁際を進む。音を殺す。あたしは魔力の出力を最小限に抑えて、探知だけを維持する。


 最奥の部屋の入口に着いた。

 角から覗き込む。暗い。苔の発光が完全に消えている。あたしは右手に淡い赤光を灯した。ごく弱い、照明用の最小出力。


 部屋の隅に——それはいた。


 体長3メートル。灰黒色の体表。四本脚。太い尾。頭部に2本の角。口元から覗く牙は——。


 あたしの知識に照合された。

 灰角獣。ダンジョン中層——第8階から第12階に出現する魔物。銀ランク以上の冒険者が対処する種だ。

 それが、第5階で寝ている。


 あたしの背中に冷たい汗が流れた。

 灰角獣の戦闘力は、角猪の10倍以上。銅ランクのパーティでもまともに戦えば死者が出る。あたしなら——指輪がなければ倒せる。指輪がある状態では、五分五分か、それ以下。

 リィナの顔が強張っている。斥候の彼女は、この魔物の名前を知っているはずだ。


 あたしはゆっくりと、音を立てずに後退した。リィナも続く。

 空白区画を抜けて、安全圏に戻るまで誰も口を開かなかった。


「灰角獣」


 リィナが小さく言った。


「中層種だ。なんであんなのが第5階にいる」

「上から降りてきたんじゃない。下から上がってきた。中層から浅層に。——フィルターが機能していないんだ」


 フィルター、という言葉が口をついて出た。自分でも意外だった。ダンジョンの階層をフィルターと呼ぶのは——どこで覚えた比喩だろう。

 でも、直感的に正しいと感じた。ダンジョンの各階層は、何かを「濾過」しているのかもしれない。その構造が壊れ始めている。


「リィナ。これはギルドに報告する」

「今度こそ聞くかな」

「聞かなくても、記録に残す。灰角獣が浅層にいる事実は、無視できないはずだ。銅ランクのパーティが第5階で遭遇したら——」

「死ぬな。間違いなく」


 2人でダンジョンを出た。

 午後の光が目に痛い。地上は平和だ。鍛冶屋の槌音。屋台の呼び込み。酒場の笑い声。誰も、地下の第5階に中層種が眠っていることを知らない。


「報告はアタシが行く」


 リィナが言った。


「え?」

「あんたが出しても銅ランクの報告で終わる。アタシがパーティの斥候として出せば、所属パーティ名も添付できる。銅ランクのソロ報告より、パーティ報告の方が処理優先度が高い」

「あなたのパーティは——」

「臨時で組んでるだけだけど、名前はある。『薄暮の針』。銅ランク4人。戦闘員2人とアタシと、あと薬師が1人。——今回の報告は、パーティの偵察活動として出す」


 リィナの判断は正しい。個人よりパーティ、ソロより組織。ギルドの処理基準を理解した上での行動だ。


「ありがとう」

「礼はいい。アタシのパーティだって第5階を使うんだ。灰角獣に鉢合わせたら洒落にならない。自衛だよ」


 リィナが手を振って去っていった。


 あたしは1人で、ダンジョンの入口の前に立っていた。

 地下に、灰角獣がいる。中層種が浅層に降りてきている。

 街道には、深層種に似た反応がいた。

 内と外で、境界が崩れている。


 左手の指輪に触れた。黒い金属。冷たいはずなのに、今日はまだ温かい。さっきの探知で反応した余熱が残っている。

 指輪はあたしの魔力を抑えている。それだけだ。灰角獣の魔力に反応したのは——同じ魔力の系統に共鳴しただけだ。深い層の魔力と、あたしの抑制された魔力に、何かの共通点がある。

 それが何なのかは——今のあたしにはわからない。

 わからないことは、保留する。データが足りない時に推測を重ねるのは、非合理だ。


 明日は4回目の護衛依頼だ。シオンとの街道。

 灰角獣のことは——伝えるべきだろうか。街道の危険は伝えてきた。ダンジョンの異変も伝えるべきか。

 シオンはダンジョンには潜らない。直接の関係はない。でも——リィナが言った通り、シオンも「当事者」だ。


 考えながら、宿に戻った。

 明日の準備をしよう。ポーションを多めに。魔力回復用の鉱石粉末も追加。

 街道の魔物も増えている。4回目のデータが、また増加を示すだろう。


 ベッドに座った。

 ポーチの中に、干し肉バーが1本。段ボール味。

 その隣に、シオンが先週押し付けてきた干し肉の残り。

 どっちを食べるか、1秒迷って——シオンの干し肉を齧った。


 美味い。段ボールとは、比較にならない。


 ……明日の弁当が楽しみだ。

 護衛依頼の前夜は、行程計画と装備の最終確認に集中すべきだ。弁当のことは考える必要がない。


 でも、あの卵焼きは美味かった。

 今回は何が来るだろう。


 ——戦術的偵察だ。敵の手の内を予測するのと同じ。弁当の内容を予測することで、あたしの戦闘——食事の効率が最大化される。


 さすがに、自分でも苦しい言い訳だと思った。


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