第5階の空白と、聞こえない音
【第5階の空白と、聞こえない音】
明後日の朝。ダンジョン入口。
リィナは5分前に来ていた。軽装。ショートソード2本。腰に偵察用の小道具——煙玉、音響石、光る粉。斥候の標準装備。
「おはよう。行くか」
「行く」
余計な挨拶は不要。あたしもリィナも、効率を好む人間だ。
ダンジョンに入った。入口の階段を降りると、地上の喧騒が遠ざかり、湿った空気と苔の発光が世界を塗り替える。
第1階から第4階までは、通常の掃討ペースで降りた。リィナが先行して偵察し、あたしが後方から魔物を処理する。
連携は——悪くない。リィナの動きは無駄がない。壁際を音もなく移動し、角の先を確認してからハンドサインを送ってくる。あたしはサインに合わせて魔法を撃つ。
パーティ行動の経験はアウレクスで4年積んでいる。斥候との連携パターンは体に染みついている。
1時間で第5階に到着した。
「ここから東に行く。問題のエリアは——3つ目の分岐を右」
リィナが声を落とした。第5階は浅層の最深部。魔物の強さが第4階から一段上がる。それでもあたしには問題ないが、リィナの安全マージンは薄い。斥候は正面戦闘に向かない。
第5階の通路は、上の階より広い。天井も高い。壁の苔の発光が緑がかっていて、視界は悪くない。
東側に向かって進む。1つ目の分岐、2つ目の分岐。通常の魔物——角ネズミが数匹いたが、あたしが処理した。
3つ目の分岐の手前で、リィナが手を上げた。停止の合図。
「——ここからだ。聞こえるか」
「何が」
「何も聞こえないだろ。それが問題なんだ」
あたしは耳を澄ませた。
——静かだ。
ダンジョンの浅層には、常に環境音がある。魔物の足音、壁を這う虫、水が滴る音、苔が発光する微かなジジッという音。それが全部、消えている。
通路の先が、不自然に静かだ。
「角ネズミの巣があった場所だ。前は——100匹はいた。うるさくて仕方なかったんだが」
リィナが分岐路の先を覗いた。暗い。苔の発光すら、この先は弱い。
あたしは右手に魔力を灯して、探知を飛ばした。
——何もいない。
角ネズミはゼロ。他の魔物もゼロ。通路の先、約50メートルの範囲が完全に「空」だ。
ダンジョンの浅層で、50メートル四方に魔物がゼロ。ありえない。浅層は魔物の密度が高い。空白ができるとすれば、冒険者が直前に掃討したか——もっと強い存在が占拠しているか。
「リィナ。50メートル先まで生体反応なし。ただ——」
「ただ?」
「空気が重い。魔力の残滓がある。何かがここにいた。今はいないか、探知に引っかからないか」
あたしは慎重に歩を進めた。リィナが壁際を並走する。
30メートル。40メートル。
通路が広い部屋に出た。角ネズミの巣だった場所。床に、巣の名残——木くずと布切れの山——が散らばっている。ネズミはいない。1匹もいない。
床に、何かの痕跡があった。
「これ」
リィナがしゃがみ込んだ。床の石に、引っかき傷がある。3本の深い溝。爪痕だ。
爪痕のサイズは——角ネズミの5倍以上。角猪でもない。岩蜥蜴でもない。
「この爪痕、浅層の魔物のものじゃない」
「ああ。サイズからして——中層か、それ以深の魔物だ」
あたしは爪痕にかざして、残存する魔力の質を読んだ。
左手の指輪が、微かに熱を持った。
——知っている。この魔力の質。
街道の渓谷で感じた、あの「重い」反応。深層種に似た、密度の高い魔力。
同じだ。同じ種類の魔力が、ダンジョンの浅層にも侵入している。
「リィナ。これと同じものが、街道にもいた。先月、渓谷区間で」
「街道にも? ……嘘だろ」
「嘘じゃない。探知で確認している。ダンジョンの内側と外側で、同じ異変が起きてる」
リィナの顔から陽気さが消えた。斥候の目。真剣そのもの。
「やばくないか、それ」
「やばい。でも、証拠は足りない。爪痕と魔力残滓だけじゃ——」
「ギルドは動かない、か」
あたしは頷いた。爪痕の位置と深さ、魔力残滓の質をメモに書き写した。手が動いている間は冷静でいられる。データに集中すれば、感情は後回しにできる。
——でも、指輪が熱い。
あの魔力に反応している。制限された魔力が、指輪の下で波打っている。まるで、同質のものに共鳴するように。
「帰ろう。今日わかったことは十分」
「ああ。——次は、この爪痕の主を特定したいな」
「次、があるとしたら」
「あるだろ。アタシもあんたも、気になったら調べずにいられないタイプだ」
否定できなかった。
ダンジョンを出た。地上の陽光が眩しい。
リィナと別れ際に、データの共有を約束した。あたしの街道データと、リィナのダンジョン内偵察データ。2つを重ねれば、異変の全体像がもう少し見えてくる。
「あとさ」
リィナが振り返った。
「あの鉄ランクの兄ちゃんにも、そのうち話した方がいいんじゃないか。街道を歩いてるなら、あいつも当事者だ」
あたしは答えなかった。
リィナは「まあ、あんたが決めることだけどさ」と手を振って去っていった。
当事者。
シオンは街道を毎月歩く。魔物が増え続ければ、護衛がいても危険度は上がる。あの渓谷の「何か」が動き出したら——。
あたしの護衛能力の範囲内で済めばいい。でも、済まなくなる可能性も計算に入れるべきだ。
合理的に考えれば——リィナの言う通り、シオンにもっと詳しく状況を共有すべきだ。
でも、「あなたが歩いている道が、思ったより危険になっている」と伝えることは——。
あたしは安宿に戻って、メモを整理した。
爪痕。魔力残滓。空白区画。深層種の浅層侵入。
データは積み上がっていく。線は太くなっていく。
そして、あの指輪の熱。
探知の時、指輪が反応した。あれは——初めてだ。8年間、この指輪が外部の魔力に反応したことは一度もなかった。
何が、変わり始めているのか。




