谷底の安宿と500レイドの定食
【谷底の安宿と500レイドの定食】
エルドヴァレスは、巨大な谷に張りつくようにして作られた街だ。
谷の上層は富裕層と大手盟約の本部。中層は一般市民と商業地区。そして下層は——冒険者街。
要するに、上に行くほど金持ち、下に行くほど荒っぽい。非常にわかりやすい。あたしは今日、その最上層から最下層に引っ越すことになった。
社会的な落差としては谷より深い。
「銅ランクへの再評価、完了しました。新しいギルド証です」
ギルド本部の受付嬢が、真新しいギルド証をカウンター越しに差し出した。銅の板に刻まれた名前と数字。昨日まで金色に光っていたそれが、今日は鈍い赤銅色。
受付嬢はあたしの顔とギルド証を交互に見て、何か言いたそうにしている。たぶん「金ランクの方がなぜ」とか「もったいない」とか、そういうことだろう。
「ランクは銅ですが、過去実績を考慮して、銀ランクまでの依頼は特例で受注可能とする処置が——」
「いりません」
「え?」
「特例はいりません。銅ランクの依頼を普通にこなします。変に目立ちたくないので」
受付嬢が困惑した顔をした。すみませんね、面倒な客で。
でも、これも計算のうちだ。特例なんてつけたら「あのアウレクスの金ランクが落ちてきた」と余計な注目を集める。銅ランクとしてひっそり稼ぐ方が効率がいい。
あたしは目立つのが嫌いなわけじゃない。ただ、目立つことで余計なコストが発生するのが嫌いなのだ。ここの区別は重要だ。
「それと、住所変更届を」
「はい。新しいご住所は?」
「下層7番街。まだ宿は決まってないですけど、このあたりで」
受付嬢の表情が一瞬曇った。7番街は冒険者街の中でも特に治安が悪いことで知られている。金ランクだった人間が住む場所じゃない、と思ったのだろう。
あたしもそう思う。でも家賃が安い。合理的だ。
ギルド証をポーチにしまって外に出ると、谷を吹き抜ける風が前髪を乱した。
上層は石造りの白い建物が整然と並ぶ街並み。ここから坂を下るにつれて、建物の色がくすみ、道幅が狭くなり、看板の文字が乱雑になっていく。エルドヴァレスの地理は、そのまま社会の縮図だ。
下層に足を踏み入れた途端、空気が変わった。
焼き肉と香辛料の匂い。酒場から漏れる怒鳴り声。路地裏で賭け事をしている男たち。鍛冶屋の槌音。素材屋のショーウィンドウに並ぶ魔物の牙と鱗。通りを走り抜ける子供たち——よく見ると腰に木剣をぶら下げている。この街では子供の遊びですらダンジョンごっこだ。
谷底に近いせいか、陽が当たる時間が短い。建物の隙間から覗く空は細く、上層と比べて薄暗い。けれど、その暗さを補って余りあるほどの雑多なエネルギーが、通りのあちこちから噴き出していた。
——まあ、活気はある。上層の、会議室の空気みたいな静けさよりはマシかもしれない。
「おう嬢ちゃん、迷子か? 上の方に戻った方がいいんじゃねえの」
通りすがりの冒険者——体格のいい男が、にやにやしながら声をかけてきた。まあ、あたしの見た目なら無理もない。148センチ、童顔。どう見ても13、14にしか見えないと自分でも思う。
思うけど、指摘されるとイラつく。これは合理とか関係ない。生理的にイラつく。
「迷子じゃないです。嬢ちゃんでもないです。邪魔です」
素通りした。男が何か言い返そうとしたが、あたしの腕の刻印がちらりと見えたらしく、黙った。指輪で魔力を抑えていても、刻印の数値自体はそれなりに高い。「それなりに」であって「規格外に」ではない——今のところは。
ちなみにこの指輪、あたしの魔力を大幅に制限している。理由は——まあ、色々ある。外せば上層の連中を全員まとめて黙らせられるくらいには強い。外さないけど。制限した状態であたしがどこまでやれるか、それを試すのも今回の目的の一つだ。
7番街の安宿は、想像通りの安宿だった。
看板の文字が半分剥げている。入口の扉は蝶番が軋む。階段を上がると、廊下から消毒液と安酒の混じったような匂いがした。
部屋。壁が薄い。窓が小さい。ベッドのスプリングが終わっている。隣の部屋から誰かのいびきが聞こえる。共同の風呂は使えるが、お湯の出が悪いらしい。1泊300レイド。あたしの今の手持ちなら3ヶ月は保つが、無収入でいるわけにもいかない。
荷物を置いて——と言っても、衣類と最低限の魔道具しかないが——ベッドに腰を下ろした。
スプリングが盛大に悲鳴を上げた。
……うるさいベッド。
窓から外を見た。小さな窓の向こうに、谷の上層が見える。白い建物群。あそこに、さっきまであたしの部屋があった。広くて、明るくて、ベッドのスプリングなんて音がしなくて。
——別に。
戻りたいなんて、思ってない。あの場所に未練なんて一ミリもない。
合理的に考えて。
ここの方が家賃が安いし、ダンジョンの入口にも近いし、素材の買い取り業者も徒歩圏内だし。全ての面においてこっちの方が効率がいい。
……うん。
全ての面において。
窓から目を逸らした。ポーチから精算書のコピーを取り出して、数字を確認する。アウレクスからの精算金が振り込まれれば、当面の資金は問題ない。あとは明日からギルドで依頼を回すだけ。
ポーチの中で、黒い指輪が鈍く光った。この指輪がある限り、あたしの戦闘力は本来の半分以下だ。それでも銅ランク程度の依頼なら問題ない。問題ないはずだ。
計画は完璧だ。何も問題はない。
あたしはイグリット=アシェンド。合理的な人間。感傷なんてものは、あたしの辞書には——
腹が、鳴った。
……そうだった。昼飯を食べてない。脱退の手続きやら引っ越しやらでバタバタしていて、すっかり忘れていた。
合理的な人間は、まず腹を満たすべきだ。空腹では正しい判断ができない。これは科学的事実である。たぶん。
安宿の1階は食堂を兼ねていた。階段を降りた瞬間、油と香辛料の匂いが鼻を突いた。上層の洗練された料理とは別物の、野蛮で暴力的に食欲を刺激する匂い。冒険者風の客が何人か、酒を片手に飯を食っている。あたしが階段を降りると、何人かがこっちを見た。新入りへの品定め。下層ではよくある光景だ。
視線を無視してカウンターに座り、一番安い定食を頼んだ。500レイド。上層のカフェならパン1個の値段だ。
出てきた皿は——大きい。上層の3倍はある。
鉄板の上で焼かれた厚切りの肉が、まだじゅうじゅうと音を立てている。焼き加減は少し甘いが、肉汁がじわりと滲み出していて、切り口が赤い。脂の焦げた端がカリッとして、これが意外と美味い。粗挽きの黒胡椒がたっぷりかかっていて、噛むたびにピリッとした辛みが口に広がる。
パンは硬い。外側がガリガリに焼かれた田舎パン。だが中はもっちりと密度があって、肉汁を吸わせると化ける。スープはぬるい——が、根菜がごろごろ入っていて、とろみのある液体が胃に染みる。空腹のせいかもしれないが、舌が素直に「美味い」と言っている。付け合わせの芋は妙に多い。バターと塩だけの素朴な味付けだが、ほくほくと崩れる食感が心地いい。
上品じゃない。盛り付けも雑だ。でも量は多い。この街の下層で生きる人間は、質より量を求める。合理的だ。嫌いじゃない。むしろ——好きかもしれない。この、腹を満たすことに全振りした潔さが。
何より、一人で食う飯は気楽だ。上層では盟約の会食やら接待やら、食事にまで政治がついてきた。ここにはそれがない。隣の席の男がゲップをしても誰も眉をひそめない。素晴らしい。
パンの最後のひとかけらでスープを拭って食べ切った。皿の底が見えた。完食。上層にいた頃は残すことも多かったのに。やっぱり、自分の金で食う飯は残せない。
2杯目のスープをすすりながら、明日の計画を立てた。
朝一でギルドに行く。銅ランクのソロ依頼を確認する。効率のいいものを選んで、ダンジョンの浅層を回る。素材を集めて売る。それを繰り返す。
シンプルで、合理的で、誰にも邪魔されない生活。
これが、あたしの望んだ自由だ。
——そのはずだった。
翌朝。
ギルドの掲示板の前で、あたしは頭を抱えることになる。




