おばあちゃんの煮込みと、不穏な報告
【おばあちゃんの煮込みと、不穏な報告】
村の集会所は、広場に面した石造りの建物だった。
普段は村の寄り合いや祭りの準備に使われているらしいが、今日は「シオンくんの護衛さん歓迎会」という名目で、テーブルに料理が並んでいた。
歓迎会。あたしの人生で最も縁遠い単語の1つだ。
「わざわざこんな——」
「いいのいいの。客人が来るなんて滅多にないんだから」
マルタが手を振って、あたしを席に着かせた。テーブルの上には、村の食材をふんだんに使った料理が所狭しと並んでいる。
まず目に入ったのは、大きな土鍋だ。蓋の隙間から湯気が噴き出していて、ぐつぐつと煮える音が聞こえる。
マルタが蓋を開けた瞬間、蒸気と一緒に濃厚な匂いが噴き出した。
——これは。
羊肉と根菜の煮込みだ。大ぶりに切った羊肉がとろとろに煮込まれていて、木匙で触れただけでほぐれるくらい柔らかい。人参、じゃがいも、玉ねぎが肉の出汁を吸い込んで飴色になっている。表面にはハーブの葉が散らされていて、ローズマリーとタイムの香りが湯気に乗って鼻をくすぐる。
煮込みの横には、焼きたてのパンが山盛りになった籠。割ると湯気が立ち上って、小麦の甘い匂いが広がる。村で挽いた粗挽きの粉だろう。表皮がパリッと硬くて、中はふわふわもちもちだ。
さらに、大皿に盛られたチーズと干し果物の盛り合わせ。薄切りにしたチーズの断面がクリーム色に光っていて、そこに紫色の干し葡萄とオレンジの干し杏が添えられている。
「トルテばあちゃんの煮込みは村の名物なのよ。3日間かけて煮込むの」
3日間。あたしがエルドヴァレスで安宿の定食を食べている間、この鍋はずっと火にかかっていたのか。
「さ、食べて食べて」
遠慮する理由がない。いや、遠慮する気もない。
煮込みを木の椀によそった。匙で羊肉をすくって、口に運ぶ。
——とろける。
羊肉が舌の上で崩れた。繊維が1本1本ほどけていくような、信じられない柔らかさ。脂の甘みが口の中にじわっと広がって、噛むほどに肉汁が溢れる。臭みがまったくない。ハーブの香りが脂を包み込んで、上品な風味に仕上げている。
根菜をかじった。じゃがいもがほくほくと崩れて、舌にまとわりつく。肉の出汁を吸い込んだ人参が、噛むたびにじゅわっと甘い。ただの人参じゃない。3日間の煮込みで、肉と野菜の旨味が全部溶け合って、一口ごとに味が重なっていく。
パンをちぎって煮込みの汁に浸した。パンの断面が茶色い汁を吸い込んで、色が変わる。口に入れた瞬間、パンの甘みと肉汁の旨味が合わさって——これは反則だ。
チーズを一切れ。コクのあるミルクの味が舌に広がって、煮込みの余韻を優しく包む。干し葡萄の甘酸っぱさがアクセントになる。
2杯目の煮込みに、今度は粗挽きの黒胡椒をかけてみた。マルタが「通だね」と笑った。胡椒の辛味が煮込みのコクを引き締めて、また違う味わいになる。深い。この料理は食べるたびに表情が変わる。
シオンの隣に座っているトルテばあちゃんが、にこにこしながらシオンの椀に3杯目をよそっている。シオンは「もう十分です」と言いながら、手は止めない。この2人のやりとりは、何年も繰り返されてきたものだろう。
気づいたら、あたしも3杯目をよそっていた。いつの間に。
「美味しい?」
「……美味しいです」
わたし、と言いかけて、口が先に「美味しいです」と出た。営業トークじゃない。本音だ。
周りの村人たちが嬉しそうにしている。あたしが食べる姿を見て、嬉しそうにしている。この感覚が——よくわからない。
アウレクスにいた頃、食事はいつも1人だった。食堂で隣に座る人間はいたが、あたしの食事を見て嬉しそうにする人間はいなかった。
「ほら、パンもっと食べな。焼きたてだから」
マルタが籠を押してきた。もう3つ目だ。断れない。断る理由がない。美味しいから。合理的だ。
食事が落ち着いた頃、ジグが難しい顔で切り出した。
「シオン。1つ、気になることがある」
「はい、何ですか」
「最近、村の周りで魔物の気配が増えてる。結界石の外側だが——前はほとんどいなかった場所に、角猪が出るようになった」
あたしの耳がピクリと反応した。
「角猪が? この辺りまで?」
「ああ。先週、畑の柵が壊された。角猪の仕業だ。結界石が効いてるから村の中には入ってこないが、畑の一部は結界の外にあるんでね」
ジグの表情が厳しい。鍛冶屋が気にしているということは、農具の修理だけでなく、武器の手入れまで必要になりつつあるということだ。
「エルサも言ってた」とマルタが口を挟んだ。「最近、怪我で運ばれてくる人が増えてるって。農作業中に魔物に襲われたって」
あたしは昨日の岩蜥蜴を思い出した。通常3、4体の区間で8体。ここでも魔物の分布が変わっている。
——やはり、偶然ではない。
「街道でも異常がありました。岩蜥蜴が通常の倍、8体いました」
あたしが言うと、ジグとマルタの顔が曇った。シオンも表情が硬い。
「やっぱりか。俺も薄々感じてたんだ。山の方から何かが押してきてるような——魔物が、こっちに寄ってきてる感覚がある」
「ダンジョンの影響ですか」
あたしの質問に、ジグは首を横に振った。
「わからん。ダンジョンはエルドヴァレスの地下だ。ここまで50キロはある。影響があるとすれば——相当な規模の異変だ」
相当な規模の異変。
あたしはアウレクスの報告書を思い出した。深層の魔力反応の異常。中層への深層種の流入。あの報告をヴァルディスは握り潰した。調査も対策もされていない。
もし、あの異変が地上にまで波及しているとしたら——。
「ジグさん。ギルドには報告しましたか」
「した。だが返事はまだだ。辺境の村の報告なんぞ、優先度は低いだろうよ」
ジグの声に、諦めに似た苦味が混じっていた。
都市と辺境の格差。情報の非対称性。あたしがアウレクスにいた時にも感じていたことだ。中枢にいる人間は、周辺で何が起きているかに鈍感になる。
「イグリットさん」
シオンが、静かな声で言った。
「この話——何か、知ってることがありますか」
青い目が、まっすぐにあたしを見ている。犬みたいな目。でも今は、鋭い。昨日、あたしの嘘を見抜いた時と同じ目。
「……知ってるかもしれない。でも、確証はない」
「教えてください」
「今はまだ——推測の段階だから。確かなことが言えるようになったら、話す」
嘘じゃない。本当に推測の段階だ。でも、あたしの中で、パズルのピースが少しずつ嵌まり始めている。アウレクスの報告書。深層の異変。魔物の分布変化。岩蜥蜴の異常発生。村周辺の角猪の出現。
点と点が、線になりかけている。
シオンはあたしの目をしばらく見つめて——それから、静かに頷いた。
「わかりました。イグリットさんが話してくれる時を待ちます」
信じている、という目だった。
あたしが話すと言ったら話す、と。根拠もないのに信じている。
——この少年の信頼は、いつもあたしの計算より早く、あたしの計算より重い。




