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山門編-初国知らす王の章(44)-出雲の荒王(15)

<これまでのあらすじ>



 豊秋津島(とよあきつしま)の青垣山籠もれる山門(やまと)の国は、俳優(わざをき)の少年御統(みすまる)と黒衣の少女豊(とよ)、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実(ときじくのかぐのこのみ)の厄災(まがごと)を乗り越えた。


 天孫(あめみま)の磐余彦狭野姫(いわれひこさのひめ)は、手研(たぎし)の乱を鎮めたあと、名を日照(ひなてる)と改め、旅の仲間とともに出雲へ向かう。


 日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれ、山門人の武彦とともに吉備の正統を取り戻す。


 日照は次兄の稲飯(いない)が出雲主の座を簒奪し、荒王(すさのおう)と怖れられていることを知り、出雲へ向かう。


 出雲の首邑、日隅邑(ひのすみむら)に到着した日照は牢(ひとや)の呪(まじない)を打ち祓い、出雲主たる次兄と対峙する。


 誓約(うけひ)により次兄に誠心を認められた日照だったが、出雲主の側近、振根から横槍を入れられる。


 日照は占縄引きの勝負に応じるが、まさかの敗北。永久の巌の呪いが彼女を助けた仲間もろとも白い石に変える。残された豊城彦と豊鍬姫は日隅邑から脱出する。


 韓久からの助言を得て、八重族の邑を目指す豊城彦たち。しかし、歓迎されるはずもない彼らは、八重族の仕掛けた呪いに捕らわれ、鳥の餌にされかける。豊城彦と豊鍬姫の奮戦により危機を脱すると、八重族の御言持に迎え入れられる。そこで、言代主の行方を問うが…。



  ≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫



<人物紹介>


 豊城彦(とよきひこ)

 俳優(わざをき)の少年・御統(みすまる)と黒衣の少女・豊(とよ)の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。


 豊鍬姫(とよすきひめ)

 俳優(わざをき)の少年・御統(みすまる)と黒衣の少女・豊(とよ)の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。


 入彦(いりひこ)

 磯城族の氏上(このかみ)。厄災(やくさい)を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主(あがたぬし)。


 美茉姫(みまつひめ)

 入彦の妻。明るい美しさの女性。淑(しと)やかであり、闊達でもある。


 活人(いくめ)

 入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。


 大彦(おおひこ)

 入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。


 石飛(いわたか)

 磯城族の青年。入彦の舎人(とねり)。


 百襲姫(ももそひめ)

 磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。


 翠雨(あおさめ)

 入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。


 如虎(にょこ)

 黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。


 翔(かける)

 豊鍬姫になついている熊鷹の子。


 日照(ひなてる)

 旧名は狭野姫(さのひめ)。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦(いわれひこ)を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。


 手研(たぎし)

 故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。


 珍彦(うずひこ)

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 道臣(みちのおみ)

 狭野姫の忠臣。手研の盟友。


 吾曽利(あそり)

 天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。


 太忍(ふとに)

 葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。


 雄心(をごころ)

 旧名は剣根(つるぎね)。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。


 五瀬(いつせ)

 故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場(まほろば)を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦(あまつひこ)。


 五十鈴媛(いすずひめ)

 五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。


 香魚(あゆ)

 両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。


 荒王(すさのおう)

 出雲を実効支配する。元の名は稲飯(いない)。日照の実兄。


 五十鈴依媛(いすずよりひめ)

 須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。


 秀火(ほひ)

 元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。


 若彦(わかひこ)

 元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。



<用語>


 高天原(たかまがはら):天上世界


 豊秋津島(とよあきつしま):物語の舞台


 葦原中国(あしはらのなかつこく):豊秋津島の別名


 山門(やまと):豊秋津島のほぼ中央に位置する地方


 青垣山(あおがきやま):山門の周囲を囲む山並み


 筑紫洲(つくしのしま):豊秋津島の西部にある大きな島で、白日(しらひ)、豊日(とよひ)、建日(たけひ)、日向(ひむか)の四地方を持つ


 真(みなか):先端の文明が栄えている西の海の果ての大陸


 氏上(このかみ):一族の族長


 天神地祇(あまつかみくにつかみ):八百万(やおよろず)の神々


 祖霊(おやたま):祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上(かむあ)がって祖霊となる


 精霊(すみつたま):森羅万象に宿る魂 


 魑魅(すだま):山林の異気から生まれた邪霊


 厄災(まがこと):山門を呪いによって支配していた饒速日(にぎはやひ)の体制を瓦解させた大災


 剋軸香果実(ときじくのかぐのこのみ):高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる

 上古、男女の間で用いられた恋愛手段が妻問(つまど)ひ、夫問(つまど)ひである。相手を恋い慕って言い寄ることであり、俗言すれば、要するに口説くのである。


 求婚することを婚(よば)ひといい、言葉が霊力を失う時代になって、夜這いの語源とされた。


 さて、助力を求めねばならない勇男は、妻問ひにでかけているという。依頼する側の事情がいかに差し迫っていても、引き受ける側の行動の誓約にはならないとはいえ、あまりに場違いな長閑さではないだろうか。押しかけた身で身勝手なことではあるが、豊城彦や豊鍬姫の不満はそこにある。


 不満顔のまま、豊城彦たちは御穂邑を出た。


 素鳴(すなら)の話によれば、勇魚が妻問う相手は、獣入りの海を渡った先の揖夜(いや)族の媛(ひめ)であるという。揖夜族の邑は比賣埼(ひめさき)邑といい、獣入りの海を挟んで対岸にある。ちなみに、媛とは首長的な力をもった女性のことである。


 親切なことに、素鳴は舟を手配してくれた。舟といっても切り出した丸太を刳り抜いただけの丸木舟である。幸いなことに風はなく、海上は凪いでいる。舟霊(ふなたま)に寿詞(よごと)を捧げてから、豊城彦たちは舟に乗り込んだ。櫂は豊城彦が掴んだ。


 視界は晴れ渡っており、夏霞に遮られることなく、対岸はよく見えた。対岸まで最短距離で渡れる航路を、素鳴に教えられたとおり辿った。大人であれば海面に茜が差す頃までに着けるとのことだったが、腕白とはいえ、櫂を操るのが童子であるため、舟の舳先が対岸に触れた時、日はすっかり沈んでいた。


 夜の原野は危険である。この時代に生きる者によって、それは常識だ。実際、夜行性の獣がいるし、魑魅(すだま)の類も普通に徘徊している。豊城彦たちは、繁々と枝葉を張った松の根本に結界を施し、一夜を過ごすことにした。


 日照たちを一刻も早く呪いから解き放ちたい焦燥から眠は浅く、豊城彦たちはまだ朝まだきにもならない暗がりのうちに目を覚ました。


 月は沈んでいるが、星明りはある。岸辺に静かに寄せる波が白線を引いて、暗さの向こうへ伸びていた。


 豊城彦たちは、夜行獣の尻尾や魑魅をうっかり踏んづけないように注意を配りながら、慎重に進んだ。


 素鳴の教示と豊城彦の櫂使いが良かったようで、人の営みを暗闇に灯す火明かりがすぐに見えてきた。


「…待って」


 豊鍬姫が豊城彦の袖を引いた。


 豊鍬姫の感性の視覚が、闇の底を動くものを捉えたのである。どうやらそれは、人である気配であった。


「お日様も射さぬうちにこそこそ動き回るとは、よからぬことを企む輩に違いない」


 自分の行動を平然と棚に押し上げた豊城彦は、こっそりとその人影を追うことにした。


 やがて、豊城彦の夜目にも人影が見えるようになった。


 篝火が近くなった。人影は火明かりが届かぬ場所を見計らって、濠の傍でうずくまった。 


 人影の背と思しきところから羽が生えた。かと思うと、羽はたちまち人影を夜空に舞い上げた。


 どうやら言霊を駆使する呪者のようだ。


(堕としてやろう)


 豊城彦は、火石を入れた火埋布(ほうずの)の嚢(ふくろ)に手を入れた。その手を、豊鍬姫がそっと抑えた。


 二人が身を隠している灌木に木通(木通)が巻きついている。眠ったままの木通の実に豊鍬姫がそっと息を吹きかけると、まだ熟していない緑の果実はぴくりと動いた。


「汝、飛ばぬ鳥、晨(あした)を長鳴く鳥」


 朝日のように豊鍬姫の言霊を浴びた木通の実は、きょときょとと辺りを見渡すように動き始めた。その動きはたちまち群れに伝播した。そして木通の実たちは、いっせいに、けたたましく、晨を告げる声を張り上げた。


 たちどころに烽火(ともしび)が増え、火明かりが濠や土塁、木柵など邑の輪郭を浮かび上がらせた。動いている火明かりは炬火であろう。


 物見櫓から矢が放たれた。その矢が当たったかどうかは見定められなかったが、呪者の人影は慌てて夜の底へ転げ落ちた。


「不埒者の泣きっ面を見てやろう」


 意地悪心を起こした豊城彦は、冷やかしの霊に憑りつかれでもしたような足取りで走り出した。彼ほどではないが、不埒者の顛末に興味をそそられた豊鍬媛も、兄の後ろに続いた。


 すぐに水際となった。海が白々と海岸を洗っているが、人影はない。


 一艘の舟が艫を波に遊ばせている。それは豊城彦たちが乗ってきた丸木舟とは違う舟で、幅も長さも一回りは大きい。


「あそこ」


 と、豊鍬媛が指さす先で水しぶきが上がっている。どうやら射落とされた不埒者は、海に落ちたらしい。


 いい気味だ、とは思ったものの、このまま溺死させてはさすがに後味が悪い。兄妹はすばやく丸木舟を海に押し出し、飛び乗るや、舟の中にあった櫂を漕いだ。


 船足の早い舟で、たちまち水しぶきの場所へ到着した。櫂を溺れている不埒者に差しだし、掴ませると、兄妹協力して不埒者を舟へ引き上げた。


 不埒者は体格の良い男であった。溺れてはいたが海水をそれほど飲んではおらず、舟が岸に着く頃には元気を回復していた。


「いや、助かった。なに、泳げぬわけではないが、この長い衣が絡まってな。まぁ、面無(おもな)いことであった」


 言霊を吹き込んで羽にしていた袖の長い衣から潮水を絞りながら、不埒者は言った。


「命の恩人(おきさね)に名を明かさねばならぬな。吾は八重族の氏上で、勇魚を申す。大仰(おほのき)に言代主とも呼ばれるが、まぁ、童子らがおらねば溺れ死んでいたくらいの男よ」


 勇魚は大笑いしたが、豊城彦と豊鍬姫の表情はこわばった。


「それにしても山鶏(やまどり)どものうれたきことよ。狂(たぶ)りおって、朝まだきにもならぬうちから騒(わわ)しゅう鳴きおるとは。おかげで酷い目に会うたわ。ことが終われば山鶏どもめ、野といえ、山といえ、捕らえ尽して、喰らい尽してやろうぞ。…それはそうとして、ときに童子よ」


 勇魚は笑ったり、怒ったりと目まぐるしく表情を変化させた顔を、今度は思案顔にして豊城彦たちを見た。さきほどまでは揶揄するような顔付きであった童子たちは、今は変に神妙に畏まっている。


「このような夜の誰時(たれどき)に、このような水際でなにをしておった。さては、汝(なれ)どもは、野槌(のづち)の類であるか」


 勇魚は左の腰に手をやった。そこには太刀がある。ちなみに野槌とは野や草の精霊で、悪戯を働いてよく人を誑かす。豊城彦と豊鍬姫は慌ててかぶりを振った。


「ははっ、戯言(たはぶれごと)よ。野槌ならば、溺れておる者を助けなどせぬからな。が、汝たちを見るにつけ、ますます心得ぬことだ」


 童子二人は黒毛の獣と若い熊鷹を連れている。このような組み合わせと、このような時刻に出会って、疑わぬほうがどうかしている。


 豊城彦と豊鍬姫は顔を見合わせてから、居住まいを正し、額を土に付ける礼(ゐや)を捧げた。


「八重の言代主、勇魚様であらせられたとは思いもよらず、いと礼無(ゐやな)き過ちを犯しました」


 豊城彦は、彼に似合わず、精一杯の恐縮を呈してみせた。勇魚は顎を撫でながら、ひとまずは頷いた。


「わけありのことらしい」


 舷(ふなばた)に腰を下ろし、勇魚は豊城彦に続きを促した。


 豊城彦はまず自分たちの素性を明らかにし、事情と経緯を順序立てて述べた。勇魚に災難をもたらしたのが山鶏ではなく、豊鍬姫が木通に言霊を吹き込んだ結末であることも隠さず話した。悪事を暴露された豊鍬姫は面を伏せていたが、もちろん兄を詰るつもりはなく、熟練の大夫(まえつきみ)のように理路整然と説明する様に、むしろ密かに舌を巻いた。


「なるほど、そういうことであったか」


 勇魚は快活に豊城彦の事情と釈明を受け入れた。そして、この時点で、彼はもうこの兄妹に好意を持った。


「それでは、汝(いまし)らを許す引き替えに、手伝ってもらいたいことがある」


 実は早急に大事な仕事をやり遂げねばならぬのだ、と勇魚は付け加えた。


「妻問いは手伝えません」


 率直に、豊鍬姫が拒否した。豊城彦は妹を窘める顔を作ったが、同意はしている。


「素鳴め、余計なことまで話しおったな」


 勇魚は顰め面になった。


 ところで、勇魚は出雲族を率いる氏上の嫡流にある人物である。日照がまだ狭野姫だあった頃、その長兄である五瀬の正妃となった五十鈴媛は勇魚の娘であり、五十鈴媛から須賀族の氏上を継いだ五十鈴依媛は、彼の養女となった。本来、彼は出雲族の次代の統率者と目されるべき立場にあったはずだが、どのような経緯があったか、彼は日隅邑を出奔し、出雲族のうち彼に同調する者たちを連れて八重族を起こした。出雲族は近衛の武人であったにすぎない振根(ふるね)に半ば簒奪されており、異邦人を出雲主に擁立して服(まつろ)わぬ他族の討伐を繰り返し、海を渡った筑紫洲(つくししま)の豊日(とよひ)や白日(しらひ)の諸族を巻き込んで混乱状態を作っている。勇魚と八重族は、その混乱の外にあった。


「確かに妻問いに励んではおるが、それはついでのことなのだ」


 と、勇魚は眉のあたりに後ろめたさを漂わせながら弁明した。


「では、真(まこと)のお務めは何なのでしょう?」


 勇魚を見上げる豊鍬姫の視線に、いささかの冷たさがある。勇魚は五十鈴依媛の養父であり、五十鈴媛の実父である。よい歳をした初老手前の男が、なお女漁りをしていることに少なからぬ嫌悪を感じているらしい。が、この世界のこの時代の恋愛は、後世に比べて遥かに自由であった。そのうえ、勇魚は前妻とは既に死別しているので、後妻を求めても責められることではない。


「八重族が言代の民と呼ばれていることを知っているかな」


 と、勇魚が切り出したとおり、八重族には、神依言を聞き取る呪能に秀でる者が多い。出雲族から出奔する際、勇魚と行動を共にした者にそうした者が多かったからだが、勇魚自身はそれほどその能力を持たなかったものの、彼が斎主(いわいぬし)に選んだ女性は良く霊妙な声を聞き分ける事ができた。その斎主が、近く起こる天災を勇魚に告げた。


「海霊(よなたま)の地揺(なゐふり)が目覚めようとしている」


 と、勇魚は語ったが、豊城彦と豊鍬姫は当然、問う目で彼を見た。


 地揺は海霊で、千尋もある巨大な鰐である。地祇(くにつかみ)であり、獣入りの海の主である。海の底で永い眠りに就いているが、地揺が目覚め、海上に姿を現した時、海底は踊るように揺れ動き、津波が起こる。海面が何十丈も盛り上がり、陸地の奥まで呑み込む。八重族の御穂邑は、邑を包むようにして海上に伸びている岬が天然の防波堤となっているが、対岸にある◯族の邑は、巨大な波の前になすすべはない。


「それゆえ、吾は美保の氏上(このかみ)に警(いまし)めを与えようと試みたのだが、これがなかなか頑なでな」


 と、勇魚は眉を下げて見せたが、その鼻の下がわずかに伸びたことを、豊城彦は見逃さなかった。


「美保の氏上が佼嬢(みめよきをとめ)なのですね」


 急所を突かれた勇魚はひとまず高笑いした。しかしすぐに豊城彦の指摘を事実と認めた。


「いや、そのとおり。美保津媛の美しさたるや、この天地(あめつち)にまたと見られぬほどなのだ」


 勇魚は、まるで美保津媛がそこに浮かんでいるかのように、陶酔した視線で宙を見上げた。それに反発するように、豊鍬媛の呆れた視線は横を向いた。


 ところで、美保津媛とは美保族の媛ということになるが、彼女の名は揖夜(いや)という。勇魚の表現からは高値の可憐な花を想像するが、実際の揖夜媛はどちらかといえば原野に雄々しく根を張る花で、かなりの男勝りである。ただし、艷やかな姿態であることは間違いない。溌剌と躍動する姿に美しさを見る男もままいるものだ。


「だが、吾は決して務めを忘れ果てておるわけではないぞ」


 勇魚は弁明を始めた。


 勇魚が八重族を起こして以来、美保族とはしばしば漁業権を巡る諍いがあった。獣入りの海の対岸に暮らす人間同士であるから、海の幸を巡るいざこざは当然、起こり得る。そのうえ、美保族にとって獣入りの海は、ただ魚貝という食料を得るためだけの場所ではなかった。鳥を天神(あまつかみ)の使いと崇める美保族にとって、獣入りの海は、鳥に捧げる贄を得るための聖なる領域でもあったのだ。


 美保族にとって、八重族は侵入者ほどの明確な敵愾心の対象ではなかったが、後から来た者たちであり、秩序を乱す存在であった。その自覚のあった勇魚は、可能な限り美保族の掟に従って、八重族にほそぼそと漁をさせてきた。


 八重族の斎主が地揺の目覚めを霊妙の声によって知ったとき、その被害を最も酷く被るであろう美保族に警告するため、勇魚は美保津媛揖夜に面会を申し入れた。が、勇魚の好意は素気なく拒否された。聖なる海に、そのような邪悪な存在が潜んでいるはずがない、というのが、美保族の主張であった。あまつさえ、美保族は、勇魚を夷者(えびすもの)と蔑んだ。夷者とは、余所者、野蛮人という類を指す呼称である。


 正門からの交渉を拒否された勇魚は、裏門に回ることにした。つまり、深夜、比賣埼(ひめさき)に建つ美保族の安来邑に密かに忍び入り、揖夜への直談判を試みたのである。


 忍び込みには成功した勇魚だったが、揖夜の怒りを招き、文字通り、堂舎から蹴り出された。たまたま、揖夜が湯浴みの最中であったというのが、勇魚の不運であり、幸運でもあっ た。


 湯けむりに垣間見えた揖夜の素肌は月明かりのように皓(しろ)く、黒髪は星瞬きに浮かぶ夜の海のようになめらかであった。缶(ほとき)を彼女に投げつけられるまでの一瞬で、勇魚の心は奪われた。なお、缶は湯を汲む 桶のことである。


 以来、勇魚の美保族への説得は、美保族を災厄から護るための義挙なのか、彼の恋路を通すための押しかけなのか、判然としなくなった。


 勇魚の言動に邪念を感じた美保族はますます態度を固くするし、白眼を向けてくる美保族への同情にもともと乏しい素鳴などは、八重族の感情を代表して、勇魚の行動をあげつらって『妻問ひ』と揶揄した。


「と、まぁ、このような経緯(いきさつ)なのだ」


 当の勇魚は大真面目であった。確かに、勇魚の揖夜への恋路が通い、しかも美保族を災厄から免れさせることができれば一挙両得というものである。が、その夢想に魅入っているのは、今のところ勇魚一人であった。


「…、それで何を手伝えと仰せでしょうか?」


 勇魚の気持ちが分からないでもない豊城彦であったが、彼にも急ぎの事情がある。


「うん、美保津媛を説き伏せる手助けをしてくれ」


 あたかも、摘草にでも誘うような朗らかさであった。


 かくして、豊城彦と豊鍬媛は、勇魚の夢想の共有を強いられることになった。

 宍道湖は島根県松江市と出雲市とにまたがる湖で、日本国内で七番目の面積を誇っています。一級水系の斐伊川が流れ込み、また、日本海とも接しているため汽水湖となっています。


 湖面に溶け込む夕日の茜色がとても美しいと評判の宍道湖ですが、わたしは恥ずかしながら、長年、「しどうこ」と読んでおりました。地理の授業をいかにサボっていたか、ということでございます。


 さて、「しんじこ」と読むその由来を調べてみました。宍道という地名のそばにある湖だから宍道湖になったそうですが、では、その「宍道」の語源はなんぞやという話になります。


 「宍」は獣(しし)を表す文字で、「道」は「ぢ」と古い時代では読んでいたそうです。宍道湖はもともと「ししぢこ」と呼ばれていたらしく、それが時代の流れの中で音が変化し、「しんじこ」となったそうです。


 出雲の国造りをしていた大国主が犬に二匹の獣(しし)を追わせたという伝承があります。追われた獣が逃げていった道、それが宍道(ししぢ)です。犬と二匹の獣は追いつ追われつのうちに石となり、その石が、いまも石宮神社に残っているそうです。

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