山門編-初国知らす王の章(43)-出雲の荒王(14)
<これまでのあらすじ>
豊秋津島の青垣山籠もれる山門の国は、俳優の少年御統と黒衣の少女豊、そして多くの人の活躍と犠牲で剋軸香果実の厄災を乗り越えた。
天孫の磐余彦狭野姫は、手研の乱を鎮めたあと、名を日照と改め、旅の仲間とともに出雲へ向かう。
日照たちは吉備の統治を巡る争いに巻き込まれ、山門人の武彦とともに吉備の正統を取り戻す。
日照は次兄の稲飯が出雲主の座を簒奪し、荒王と怖れられていることを知り、出雲へ向かう。
出雲の首邑、日隅邑に到着した日照は牢の呪を打ち祓い、出雲主たる次兄と対峙する。
誓約により次兄に誠心を認められた日照だったが、出雲主の側近、振根から横槍を入れられる。
日照は占縄引きの勝負に応じるが、まさかの敗北。永久の巌の呪いが彼女を助けた仲間もろとも白い石に変える。残された豊城彦と豊鍬姫は日隅邑から脱出する。
韓久からの助言を得て、八重族の邑を目指す豊城彦たち。しかし、歓迎されるはずもない彼らは、八重族の仕掛けた呪いに捕らわれる。
≪是非ご一読ください。ご感想、ご評価をいただけましたら幸いです。≫
<人物紹介>
豊城彦
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。自由奔放。
豊鍬姫
俳優の少年・御統と黒衣の少女・豊の生まれ変わり。入彦を父として育つ。呪能に秀でる。
入彦
磯城族の氏上。厄災を乗り越え、一角の人物に成長する。磯城の県主。
美茉姫
入彦の妻。明るい美しさの女性。淑やかであり、闊達でもある。
活人
入彦と美茉姫の子。引っ込み思案で臆病者だが、やるときはやる。いつも兄と姉に翻弄される。
大彦
入彦の伯父で舅。怪力無双。豪放な性格だが、娘の美茉姫には頭が上がらない。
石飛
磯城族の青年。入彦の舎人。
百襲姫
磯城族の斎宮。入彦の大伯母。呪能は無尽蔵。
翠雨
入彦の愛馬。御統の友人。濡れたような深い青色の毛並み。
如虎
黒豹。豊の友人。厄災後は、磯城の三輪山の森の中で静かに暮らしている。
翔
豊鍬姫になついている熊鷹の子。
日照
旧名は狭野姫。かつて天孫族の氏上であり、磐余彦を号して山門主であった。超絶美女だが、乱暴でわがまま。入彦を慕っている。
手研
故人。狭野姫の年上の甥。狭野姫が唯一甘えられた人物。入彦に狭野姫を託して逝く。
珍彦
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
道臣
狭野姫の忠臣。手研の盟友。
吾曽利
天孫族の有力者。狭野姫に不満を抱いている。山門近傍に潜伏し、捲土重来を期す。
太忍
葛城族の氏上。山門の権力掌握をもくろむ。
雄心
旧名は剣根。太忍の庶子。過去の所業を悔やみ、日照の従者となる。
五瀬
故人。狭野姫の長兄であり、手研の父。高千穂族とともに東の真秀場を目指し、天孫族を号する。初代の天津彦。
五十鈴媛
五瀬の後妻。出雲族の出身で、製鉄技術者集団と縁が深い。手研にとっては、同年代の継母。
香魚
両性具有の人。神々も魅了する美しい瞳を持っている。
荒王
出雲を実効支配する。元の名は稲飯。日照の実兄。
五十鈴依媛
須賀族の氏上。出雲の荒王となった稲飯を秘かに想う。
秀火
元須賀族。妖言により荒王の配下となっていたが、日照に解放される。
若彦
元須賀族。妖言から解放されていたが、稲作で荒王を支える。
<用語>
高天原:天上世界
豊秋津島:物語の舞台
葦原中国:豊秋津島の別名
山門:豊秋津島のほぼ中央に位置する地方
青垣山:山門の周囲を囲む山並み
筑紫洲:豊秋津島の西部にある大きな島で、白日、豊日、建日、日向の四地方を持つ
真:先端の文明が栄えている西の海の果ての大陸
氏上:一族の族長
天神地祇:八百万の神々
祖霊:祖先の霊魂 氏上は死ぬと神上がって祖霊となる
精霊:森羅万象に宿る魂
魑魅:山林の異気から生まれた邪霊
厄災:山門を呪いによって支配していた饒速日の体制を瓦解させた大災
剋軸香果実:高天原の神々が下界に投げ捨てた邪心が凝固したもの いつか高天原に帰ることを望み、時を戻す霊力を蓄えるため大地に寄生して石の花を咲かせる
鳥という生き物を、これまで美味なるものとしか認識していなかった豊城彦によって、現況は、かなり不本意なものであった。彼等の上空に何十羽と集まった鳥たちは、台に並べられた生贄の、どれが一番美味いかを目利きして、今にも嘴でほうばろうとうずうずしていた。
豊城彦は豊鍬姫の前を護り、如虎は豊鍬姫の後ろを護った。翔は勇ましく飛び出そうとしたが、豊鍬姫が懐に抱いた。
「案ずることはないわ。あなたはまだ戦わなくていいの」
豊鍬姫は落ち着いた声で翔に囁いた。
豊鍬姫は安心しているのだ。何かと軽率な兄と呑気な獣ではあるが、いざというとき、豊城彦と如虎は頼りになる。護り抜いてもらえると、彼女は信じている。
鳥たちの第一陣、最初にご馳走にありつけることになった十数羽が嬉々として急降下してきた。豊城彦は火埋布の嚢から目にも止まらぬ早さで火石を投げつけ、たちまち数羽を撃ち落とした。火石をくぐり抜けた数羽も、豊城彦の木剣と如虎の前脚の爪で撃退された。
すかさず、第二陣が襲いかかってくる。それも撃退した豊城彦と如虎だったが、さすがに手傷を置い、身を抉られ、鮮血を流した。鳥たちの中心、翼の広さが優に大人二人分もありそうな一羽の大鷲は、台の生贄のあがきをせせら笑っているように見えた。
豊城彦と如虎の奮戦に男子としての矜持を奮い起こされた翔が、豊鍬姫の胸元から飛び立った。
翔はまっすぐに飛翔し、大鷲と対峙した。だが、体格では到底敵わないと冷静に判断している翔は、格闘ではなく、対話を持ちかけた。
翔は鳥の言葉で、事情を説明し、彼等の使命を告げ、八重族の早合点による無駄な争いを止めさせようとした。しかし、自身の優位を信じ、支配下にある鳥たちに力を誇示するため、大橋は翔の努力を嘲笑った。
大鷲の翼が、翔を激しく打ち据えた。翔は気を失い、台よりもはるか下の岩場に堕ちそうになったが、如虎が飛びついて前脚で翔を受け止めた。墜落死は免れたが、翔は大鷲の一撃で酷い損傷を受けた。
大鷲は哄笑するような鳴き声を轟かせながら、勝ち誇ったように悠々と空を旋回したが、彼は、自分が逆鱗に触れてしまったことに気づいていなかった。
突然、背中を突き飛ばされた豊城彦はつんのめり、たたらを踏んで、危うく台から転がり落ちるところだった。
ふりかえって、豊城彦はぎょっとした。同じ顔をした如虎と目が合った。
豊鍬姫の華奢な身体から、膨大な呪力が迸り、球形の障壁となっていた。薄紅に煌めくその障壁の内部では、有り余る呪力が小さな雷となって放電されている。その圧力に、台の床が円形に押しつぶされ、放射状の亀裂が走った。
「…汝妹ちゃん?すこし穏やかに…」
豊城彦は自らの安全のためにも、豊鍬姫を宥めようとした。が、豊鍬姫は、
「玉響、玉響…」
と、一心に念じている。諦めた豊城彦は、
「如虎!何でもいい、しがみつけ!」
と、悲鳴のように叫んだ。
「爆ぜなさい!火雷!」
豊城彦の悲鳴は、雷鳴のような豊鍬姫の号令にかき消された。
耳をつんざく爆発音が轟き、火柱が上空へ噴き上がった。それは小さな火山の噴火に似ていた。こんがりと焼き焦がされた焼き鳥が、ばらばらと堕ちた。
例の大鷲は、翼と尾羽を焦がされながらもなんとか火柱に耐えたが、配下の鳥たちが一瞬で焼き尽くされた現実に呆然とし、もはや燕雀ほどの貫禄もなかった。
「死ぬ思いだったけど、まぁよしとしよう」
慄きながらも強がる豊城彦の背中の衣からも、焦げ臭い煙が細く立ち昇っている。彼はおそるおそる妹へ近づき、その肩を叩こうとして、慌てて手を引っ込めた。豊鍬姫はいまだ忘我状態にあり、火雷のなごりを、まだ白い肌から放電させていた。
鼓膜の奥まで震わせていた轟音の残響は、収まったはずだが、豊城彦の視界はまだ揺れている。小首を傾げる豊城彦に、異常を察知した如虎が前脚で台の下部を示しながら、青い顔で危険を主張した。
視界が大きく傾き、豊城彦にも間もなく彼等を襲う絶体絶命の事態を悟らせた。
火雷の圧力に耐えかねた台と、それを支える一本足の柱が崩壊しようとしているのだ。
「もちろん、ここから鳥のように舞い降りる呪いを知っているんだよな」
豊城彦の一縷の望みを託された豊鍬姫は、呪力を放出し尽くしたためか、気を失って、兄の腕に倒れ込んだ。
「…そんなうまい話はないか」
早々に、豊城彦は奇跡を諦めた。そこへ、頭上に、哀れな閑古鳥と落ちぶれた大鷲が蹌踉と通りかかった。
「やれやれ、あいつに頼るとするか…」
豊城彦は火石を二つ、素早く大鷲に投げつけた。驚いた大鷲は崩れかけた台の床に堕ちてきた。その首根っこを押さえた豊城彦は、
「吾たちを運ぶだけの羽は残っているよな。でないと、同母妹がまた切れるぞ」
豊城彦は鳥語を知らないが、脅しは大鷲に伝わった。
一本足の柱が三つに折れて崩れた。当然、物理のなすがままに、台も崩れ落ちた。崩壊の巻き添えから辛うじて飛び逃げた大鷲の背には、豊城彦と豊鍬姫、如虎と翔が乗っていた。
台の崩壊の恐怖よりも、火柱の恐怖に駆られている大鷲は懸命に翼をはためかせたが、彼の焼け焦げた翼には限界があった。そもそも積載量が大きすぎる。
落下とは言い切れない速度で、大鷲は落下した。豊城彦たちは地面に投げ出されたが、幸い、岩場からは離れた土の上であったから、軽い打撲以外、さしたる被害はなかった。むしろ被害は、これから先に待ち受けている気配があった。
豊城彦たちは、武器を携えた邑人に取り囲まれていた。台であれほどの騒ぎを起こしたのだから、邑人が武装して駆けつけるのは当然だった。
「みなさん、お揃いで…。ちょっとした事故がありまして…」
豊城彦は自分たちの無害を主張しようと試みたが、邑人の醸し出す剣呑とした雰囲気はそれ以上の軽口を許さなかった。
ふと気付けば、暮れ方である。獣入りの海に溶け込んだ赤い日差しが邑まで伸びて、邑人の持つ銅矛や銅剣の刃を鈍く輝かせた。
もうひと立ち回りいるようだ、と豊城彦は如虎と目語を交わした。だが、豊鍬姫と翔はまだ気を失ったままだし、火石の残弾も心許ない。
どうやって逃げようか。豊城彦が脳内を忙しく働かせるうちに、ふと、笑い声が起こった。
その笑い声は邑人の囲みを分けて、そこから人が歩いてきた。足音には和やかさがあった。
柔らかな空気を運んできたその人物は、先ほどは素っ気ない態度だったあの持箒者だった。彼が合図をすると、邑人は一斉に武具を下ろした。斎場の掃除人にすぎない者に対する姿勢としては、ちょっと珍しい。
「足ひとつ上がりの殯屋を毀つとは、祖霊も精霊も教えてくれなんだわ」
持箒者は期待以上の大魚を釣り上げた漁夫が瞠目した時のような顔で言った。
「兎ほどとは言えないけど、鼬くらいの足はあったようだね。それで、斎主から言代の言葉は聞けたのかな」
豊城彦は努めて余裕を装った。こういう場合、度胸の据え方が勝敗を左右するということを、童子の身ながら知っている。
しばらく豊城彦を注視していた持箒者は、やがて口元に笑みを広げ、
「我が族の御言持が汝たちをお待ちだ。付いてくるがよい」
そう言って、踵を返した。
豊城彦は邑人の輪のなかに戻ってゆく持箒者の背中を注意深く観察した。
ここは慎重に見極めなくてはならない。なにしろ、いきなり、生きたまま鳥の餌食にしようとした連中なのだ。
持箒者の背中に害意はない、と豊城彦は見た。邑人たちも武器は収め、囲んではいるが、それは異邦人が進むべき道を誤らないように護っているように思えた。鼻面を寄せてきた如虎も同じ思いを持っているようだ。
豊城彦は呪能は並だが、腹の据え時は知っている。彼はまだ目覚めない妹を如虎の背に預け、翔は自分の胸に抱いた。
豊城彦たちは持箒者に先導されながら、八重邑の中心部へと向かっていった。当然そこには氏上の宮処があり、斎宮があるのであろう。
あらためて観察すると、邑は重防備に固められている。複雑に、幾重にも巡らされた木柵や空壕、木柵の門や空壕を渡る土橋の前には逆茂木が並べられているし、あちこちに櫓が立ち並んで、弓を持った邑人が鷹のような目を光らせている。
邑は、全体的に赤く塗り上げられている。
赤は破邪の色であり、不屈を表す色である。その燃えるような色を基調に、様々な呪飾が描かれている。柵を越え、櫓を破壊しようとする者は、全身を焼かれるような苦痛を味わうことだろう。むろん、土の下にも呪いが埋設されているに違いない。この邑がもしも戦場となれば、まずは祓除と結界との壮絶な呪術合戦となるのだろう。
落日の西日を受けて、邑は幻想的な赤のなかに佇んでいる。
当初、豊城彦たちを囲んでいた邑人の輪は解けて、二人の邑人だけが後ろを歩いていたが、気付けばその人影も消えていた。
八重邑の中心部は、獣入りの海に迫る山裾に築かれているから、進むにつれて高みに登っていく。その頂に建つ瀟洒な堂舎が宮処である。その奥に甍を見せている建物が斎宮だ。この区画は赤く塗られてはおらず、切り出された木材の素のままであった。
持箒者は堂舎に入っていく。門の前に立っていた二人の仕女が深々と頭を下げた。持箒者は仕女に何事かを指示した。
門口で、豊城彦たちは仕女に柔らかく留められた。仕女はまだ稚女で、美女には見慣れているはずの豊城彦が目を見張るほど、美しかった。夕日の雫が頬を淡く染め、彼女たちの清らかさを際立たせていた。
稚女たちは、一人は先に立ち、一人は後ろに控えて、堂舎の中を案内しようとした。それが、持箒者の背が消えた廊下の先とは違う方向だったので、不審を覚えた豊城彦は、
「八重族の御言持様が我らをお待ちであると聞いたけど」
と、案内には従わなかった。彼本人としては毅然と問い質したつもりだが、清楚な稚女に見つめられると、どうにも鼻の下がだらしなくなった。豊鍬姫はまだ気を失ったままだったので、彼としては、妹に軽蔑されずに済んだ。
「はい。御言持の素鳴様は、皆様をお待ちでございました。ですが、皆様がとてもお疲れのお姿でございましたので、」
稚女たちは、一人は先に立ち、一人は後ろに控えて、堂舎の中を案内しようとした。それが、持箒者の背が消えた廊下の先とは違う方向だったので、不審を覚えた豊城彦は、
「八重族の御言持様が我らをお待ちであると聞いたけど」
と、案内には従わなかった。彼本人としては毅然と問い質したつもりだが、清楚な稚女に見つめられると、どうにも鼻の下がだらしなくなった。豊鍬姫はまだ気を失ったままだったので、彼としては、妹に軽蔑されずに済んだ。
「はい。御言持の素鳴様は、皆様をお待ちでございました。ですが、皆様がとてもお疲れのお姿でございましたので、今宵は休んでいただくよう仰せつかりました」
稚女は慎ましく垂髪の頭を下げた。それだけで豊城彦の不審は解けた。解けたどころか、彼女たちを疑った己を軽く責めさえしたのだから、美しさはいつの時代も男心を惑わせる。
ところで、そう言えば、すでに夕茜の時は過ぎ、堂舎の戸口は宵青に包まれつつあるし、確かに疲れ果てている。
稚女たちの案内に素直に従うことにした豊城彦は、客房に落ち着くや、夕食も摂らずにたちまち眠ってしまった。
目覚めたとき、客房の牖から差し込む光は、早朝の清らかさであった。
豊鍬姫はすでに寝覚めており、褥の上で、翔を胸に抱いていた。翔も気を取り戻しており、果敢に大鷲に挑んだ勇気を豊鍬姫に褒められ、嬉しげに目を細めていた。
「…腹が減ったな」
兄が目覚めたことを知った豊鍬姫は、そちらへ顔を向けた。その顔へ、ここで一夜を明かした経緯を、兄は妹へ話して聞かせた。
「…そんなわけだが、ともかく、腹が減った」
厚かましい客人の声が届いたのか、房の戸が開き、香しい香りが流れ込んできた。昨日の清楚な稚女二人が、朝餉を運んできたのである。
獣入りの海の幸をふんだんに使った食膳が並んだ。蜆の吸い物は蒸し物など、またたく間に豊城彦たちの腹に収まった。如虎と翔には、干した兎肉が馳走された。
二人の稚女は手際よく給仕し、片付けた食膳と共に房から去ると、しばらくして壮年の使いが現れた。
「御言持様がお会いなさる。ついて参れよ」
とのことであった。
甘眠と美食に心を揺蕩わされても、この邑に来た理由を忘れるはずのない豊城彦は、たちまち顔色を改めた。
「我らは勇魚様にお会いしに参った。御言持殿にお伝えすれば、お目通りが叶うでありましょうや」
童子の思いがけない迫力に、使いの男は気圧された。
「吾にわかろうか。まずは御言持様に願いの旨を伝えるがよかろう」
もっともな話である。豊城彦としては舌打ちしたいところであったが、分別を見せて、豊鍬姫を促して房を出た。
通された房は白木で造られた清明な空間であった。木の香りが濃い。
豊城彦と豊鍬姫は房に入ったが、如虎と翔は外で待たされた。獣は入室が許される清浄な聖域ということであろう。豊鍬姫は不満の色を浮かべたが、豊城彦は妹を宥めた。
上座に壇があり、そこに朝の光にぼやかされた人が静かに座っていた。
顔の輪郭がはっきりしてくると、豊城彦は軽く驚いた。
上座に居たのは、あの持箒者である。笑貌であった。
「八重の御言持、素鳴である」
持箒者と見込んでいた人物が素性を明かした。嫌みはなく、諧謔を解さぬほど、豊城彦も調子が悪くはない。
「八重の氏上様は、気ままな御方のようだね。箒をお持ちになって、御言葉を集めて回るのは、さぞお忙しいことでしょう」
豊城彦は納得顔でそう返した。房に笑い声が広がった。
「実は汝の妹が申したとおり、我らが斎主から祖霊の言代を聞き、汝らが来ることを知っておったよ」
だが、来訪するのは年端もいかぬ童子であるという。斎主の聞き誤りを疑うわけではないが、一族の大事を童子が運び込むことに一抹の不審を覚えた素鳴は、一種の誓約を実行したのである。その占形はあまりにも鮮明であった。
「あの、足ひとつ上がりの台は我が族の殯屋でな、もう一度建てるのは骨が折れることだ」
素鳴は苦く笑ったが、それは祖霊の言葉を疑った己への嘲笑であった。
双方が事情を知ったことで、会見は本題に入った。
「勇魚様にお目通りしたい。そういうことであったな」
確認というよりも手続きといった素鳴の表情であった。
「そのわけもお分かりのはず…」
豊城彦も委細は語らなかった。言代の民に対して、余計な説明は蛇足であろうと思えた。
「確かにな。だが、汝らに言加えたのは誰かな?」
言加えとは、つまり助言ということだ。
「いけ好かない奴だけど、韓久からここへ向かえと教わりました」
「韓久か。あれは見込みに足る男だよ。汝は心違いをしておるのだろうが…」
素鳴は、韓久がそう教示したのなら、この童子らを氏上に会わせるべきであろうと考えた。考えたが、言い出しにくい事情がある。
豊城彦は素鳴の次の言葉を待った。
牖から見える庭木の枝に花鶏がとまり、歌うように鳴いた。
「実は勇魚様は、今、邑にはいらっしゃらない」
「どこにおいでなのです?」
当然、豊城彦はそれを尋ねなければならない。
「…妻問いに出かけておられる」
ばつの悪そうに素鳴は横を向いた。
「妻問い…」
豊城彦も、ここは呆れるしかなかった。
米百俵の精神や「あとから来る者のために」という詩を思い起こすことが近頃たびたびあります。
タイムパフォーマンスを追求する昨今の風潮や教育、国の施策、ネットやSNSに溢れている志向、世界の指導者、果ては様々な事件に至るまで、いったいどこを見ているのだろうと思わせる事柄が多いと思います。
先日、驚いたのは、とある県高野連が進めている野球用語の見直しです。死球や盗塁等の野球用語が物騒で、教育によくないので見直すとの趣旨らしいです。
とある県高野連の方々はあまりに頭が良すぎるため、一周して幼児の思考になってしまったのでしょうか?
確かに、死や盗むという文字は、あまり良い意味ではないかもしれません。しかしそれが高校生に悪影響を与えるという思考回路はどうなっているのでしょう?野球に人生を捧げてきた人には、尊敬すべき人がたくさんいらっしゃいます。道を踏み外してしまっ
た元プロ野球選手もいますが、それは、野球用語のせいなのでしょうか?
あまりにも浅はかな思考だと思います。それがまかりとおるなら、われわれはもはや刺身を口にすることはできなくなるでしょう。必死に挑戦することもできなくなるでしょう。
言葉の意味は時代によって変遷するものです。確信犯なんて言葉はその代表でしょう。ですが、先人の知恵によって生まれた漢字を、我が国の文化である漢字を、意味が悪いからと排斥する考えには危機感さえ覚えます。そりゃ、子どもの名前に悪とかは付けませんけどね。
なにか書き出しと若干話が変わっているような気もしますが、文字を、漢字の文化を愛する者として、とても腹立たしい思いがしたという愚痴でした。




