第52話 日常への帰還
外へ出た瞬間。
夜風が頬を撫でた。
それだけのことだった。
ただ地下施設から地上へ出ただけ。
それだけのはずなのに、僕たちはしばらく誰も言葉を発することができなかった。
夜空が広がっている。
星が見える。
遠くには刑部市の明かりが灯っている。
当たり前の景色だ。
昨日も見た。
一週間前も見た。
何度も見てきた光景だ。
けれど。
今だけは違った。
もし少し何かが違っていたら。
もし観測者との対話が失敗していたら。
もしアークが最後まで戦う道を選んでいたら。
この景色そのものが失われていたかもしれない。
そう思うと。
刑部市の夜景が妙に綺麗に見えた。
「終わった……」
のぞみがぽつりと呟く。
その声には疲労が滲んでいた。
無理もない。
ここ数日だけでも普通の高校生が一生分体験しないような出来事に巻き込まれている。
むしろ今まで元気だった方がおかしい。
「終わった、でいいのかな」
ひかりが夜空を見上げながら言う。
その問いに。
誰も即答できなかった。
切り裂きジャック事件は終わった。
人格消失事件も終わった。
観測者の暴走も止まった。
だが。
それですべてが解決したわけではない。
観測者は生きている。
アークも消えていない。
怪異も残っている。
そして。
僕たち自身も何も元には戻っていない。
そんな微妙な空気の中。
突然。
ぐうううううううう。
大きな音が響いた。
全員が振り返る。
音の発生源は。
「……」
少年だった。
本人も固まっている。
顔だけゆっくり下を向く。
自分の腹を見る。
そして。
再び僕たちを見る。
「今の」
真顔だった。
「何?」
数秒。
沈黙。
そして。
のぞみが吹き出した。
「お腹空いてるんだよ!」
「空腹?」
少年は首を傾げる。
本気で知らないらしい。
それを見て。
今度はひかりまで笑い始めた。
「そうか」
エルザさんも苦笑する。
「ご飯食べたことないんだ」
少年は少し考える。
「たぶんない」
「たぶんって何だ」
「情報としては知ってる」
真面目な顔で答える。
「でも体験はない」
なるほど。
何だか観測者らしい回答だった。
知識はある。
経験はない。
だから分からない。
その時だった。
ぐうううううう。
今度はもっと大きな音が鳴る。
少年は目を見開いた。
どうやら二回目らしい。
「攻撃?」
「違う」
「故障?」
「違う」
「死ぬ?」
「そこまでじゃない!」
僕が叫ぶ。
すると。
エルザさんが吹き出した。
本当に久しぶりに。
肩を震わせながら笑っている。
「ごめん」
笑いを堪えながら言う。
「でも面白い」
「何が」
少年は真剣だった。
その真剣さが余計に面白い。
「とりあえず」
僕は言った。
「飯を食おう」
「飯」
「食事」
「食事」
「人間に必要なもの」
そこで。
少年は少しだけ考え込んだ。
赤い瞳が夜景を映す。
その表情は。
以前の観測者とは全く違っていた。
何かを分析しているのではない。
理解しようとしている。
体験しようとしている。
そして。
小さく呟いた。
「楽しみ」
その一言に。
誰も何も言えなくなった。
楽しみ。
観測者が。
あの怪物だった存在が。
そんな言葉を口にする日が来るなんて。
誰が想像しただろう。
すると。
後ろからアークの声が聞こえた。
「それは良かった」
振り返る。
アークは少し離れた場所で夜空を見上げていた。
身体は相変わらず薄くなっている。
だが——その表情は穏やかだった。
「世界はね」
静かな声だった。
「案外そういうもので出来ている」
少年が見る。
アークも見る。
「大きな理想とか」
「壮大な計画とか」
「文明の未来とか」
少し笑う。
「もちろん大事だけど」
そして。
少年へ向かって言った。
「最初はご飯の方が重要だ」
その瞬間。
全員が吹き出した。
アークまでそんなことを言うのか。
少年はしばらく考え込む。
そして。
真剣な顔で頷いた。
「分かった」
「何が」
「文明保存より先に」
一拍置く。
「ご飯」
今度こそ。
全員が大笑いした。
刑部市の夜空の下で。
長かった戦いの後で。
僕たちはようやく。
普通に笑うことができたのだった。




