第50話 終焉(3)
その笑顔を見た瞬間だった。
アークの身体が。
ふっと揺らいだ。
まるで風に吹かれた水面の映像みたいに。
輪郭が一瞬だけ崩れる。
「アーク!」
エルザさんが叫ぶ。
アークは慌てて手を振った。
「大丈夫」
「全然大丈夫そうに見えない!」
「それは否定できない」
妙なところだけ素直だった。
だが。
笑っている。
本当に。
今まで見たどの笑顔より自然に。
肩の力が抜けている。
千三百年間背負い続けたものを、ようやく下ろした人間の顔だった。
少年も気付いたらしい。
不安そうにアークを見上げる。
「消えるの?」
また同じ質問だった。
だが今度は少し違う。
確かめるためではない。
止めたいと思っている声だった。
アークは少し考える。
そして。
正直に答えた。
「分からない」
全員が固まる。
「分からない?」
僕が聞き返す。
「君、今まで何でも知ってる感じだったじゃないか」
「知らないこともあるよ」
アークは肩をすくめた。
「特に今起きていることはね」
その時。
スマホが震える。
ガラムドだった。
『補足します』
「便利なタイミングだな」
『褒め言葉として受け取ります』
絶対違う。
『現在アークの存在は再定義中です』
「日本語で」
『私もよく分かりません』
「お前もかよ!」
『はい』
即答だった。
最近のガラムドは正直過ぎる。
『ただし』
文字が続く。
『観測者との接続が切断された結果、本来消失するはずだった管理権限が現在も残存しています』
沈黙。
誰も理解できない。
『さらに』
『観測者側から新たな権限移譲を確認』
今度はアークが眉をひそめた。
「……何?」
珍しく本人も知らないらしい。
すると。
少年が小さく手を挙げた。
教室で発表する子供みたいに。
「あの」
「うん」
「たぶん僕」
少年は言った。
「消したくないと思った」
空気が止まる。
「え?」
のぞみが呟く。
少年は困った顔になる。
「よく分からない」
「でも」
胸を押さえる。
「消えたら嫌だと思った」
その瞬間。
ガラムドから新しいメッセージが届いた。
『原因判明』
『早いな』
『観測者がアークの存在を保持しています』
沈黙。
そして。
「は?」
僕とのぞみの声が綺麗に重なった。
『正確には人格保存ではありません』
『強制保存でもありません』
『本人の意思による存在維持です』
「待て」
アークが頭を押さえた。
「待て待て」
珍しく本気で困っている。
「つまり?」
『簡単です』
ガラムドが言う。
『友達を帰したくないらしいです』
全員が少年を見る。
少年は固まった。
「友達?」
『友達です』
「違う」
『友達です』
「違うと思う」
『照れています』
「分析するな!」
少年の顔が少し赤くなった。
初めて見る表情だった。
そして。
その様子を見て。
不意にエルザさんが吹き出した。
「ふふっ」
小さな笑い声。
次にのぞみが笑う。
ひかりも。
そして。
気付けば僕も笑っていた。
何だそれ。
世界の危機が終わったと思ったら。
最後は友達判定で解決するのか。
「人類の未来を賭けた最終決戦の結論がそれ?」
「案外そんなものかもしれないよ」
アークが笑う。
そして。
少しだけ少年を見る。
「友達か」
その言葉を噛み締めるように。
静かに繰り返す。
「悪くない」
少年が顔を上げる。
「本当?」
「本当だよ」
アークは答えた。
「少なくとも」
そこで少しだけ考える。
そして。
穏やかに続けた。
「管理者とか観測対象よりはずっといい」
少年は黙る。
だが——少しだけ嬉しそうだった。
その時。
トンネル全体が微かに揺れた。
今までとは違う。
不吉な振動ではない。
長い役目を終えた建物が、ようやく休もうとしているような穏やかな揺れだった。
『皆さん』
ガラムドが言う。
『そろそろ本当に帰った方が良いです』
「何か起きるのか?」
『いえ』
『単純にこの施設が崩壊します』
「もっと早く言え!」
『タイミングを見計らっていました』
「見計らうな!」
天井から小石が落ちる。
遠くで崩落音が響く。
どうやら本当に限界らしい。
そして。
僕たちは顔を見合わせた。
長かった。
本当に長かった。
切り裂きジャック。
人格消失事件。
観測者。
アーク。
エルディア。
全部。
全部ここで終わる。
そう思った時だった。
少年が不意に僕を見た。
「隼人」
「ん?」
初めて名前を呼ばれた気がした。
少年は少し迷う。
そして。
真剣な顔で聞いた。
「学校って」
嫌な予感がした。
「面白い?」
数秒。
沈黙。
そして。
「そこ聞く!?」
僕の叫びが崩れかけたトンネルに響き渡った。




