第48話 終焉(1)
涙だった。
たった一粒。
けれど。
その一滴が零れ落ちた瞬間、空気が変わった。
誰も言葉を発しない。
発せなかった。
それは観測者の涙だった。
世界中の文明を観測し続け、数え切れない人格を保存し、千三百年という時間の中で一度も迷いを見せなかった存在が、今ようやく流した最初の涙だった。
ぽたり。
小さな雫が地面へ落ちる。
その瞬間。
周囲の空間が微かに揺れた。
まるで世界そのものが、その涙に反応したかのように。
「……あ」
少年が目を見開く。
自分でも驚いているらしかった。
指先で頬に触れる。
濡れている。
その事実を確かめるように何度も触れる。
そして。
少しだけ困った顔をした。
「これ」
小さな声。
「何?」
誰へ向けた問いなのか分からない。
エルザさんは少しだけ笑った。
「涙だよ」
優しい声だった。
母親が子供へ教えるみたいに。
「悲しい時とか」
「苦しい時とか」
「嬉しい時とか」
「安心した時とか」
「色々な時に出る」
少年は黙る。
理解しようとしている。
けれど。
まだ上手く整理できていないらしい。
「僕は今」
震える声。
「何なんだろう」
その言葉に。
誰もすぐには答えなかった。
なぜなら。
それはあまりにも難しい問いだったからだ。
観測者は今まで観測者だった。
世界保存装置だった。
アークが作り出したシステムだった。
だが。
今は違う。
少なくとも。
もうそれだけではない。
「君は君だよ」
静かに言ったのはエルザさんだった。
少年が顔を上げる。
「それじゃ答えになってない」
「そうかな」
エルザさんは首を傾げた。
「私も少し前まで分からなかったし」
苦笑する。
「エルディアなのか」
「エルザなのか」
「どっちなんだろうって」
少年は黙って聞いている。
「でも結局」
エルザさんは続ける。
「今の私になった」
金色の瞳が穏やかに細められる。
「過去も私だったし」
「今も私だった」
「だから」
少し笑う。
「君もそのうち分かるんじゃないかな」
少年は何も言わない。
ただ。
その言葉を大事そうに抱えるような顔をしていた。
その時だった。
後ろで。
アークが小さく息を吐いた。
それは安堵にも似た吐息だった。
「終わったかな」
誰へともなく呟く。
その声に。
僕は思わず振り返った。
そして。
初めて気付く。
アークの身体が——少し透けている。
「……あれ?」
僕の声に。
全員の視線が集まる。
エルザさんも振り返る。
そして。
表情が固まった。
「アーク」
アークは苦笑した。
誤魔化そうとするみたいに。
「見つかったか」
その身体は確かに薄くなっていた。
輪郭が曖昧になっている。
まるで光で作られた幻が少しずつ消えていくみたいに。
少年もそれに気付いたらしい。
赤い瞳が揺れる。
「どうして」
アークは少しだけ空を見上げた。
崩れた天井の向こう。
夜空が見える。
刑部の空だった。
「当然だよ」
静かな声。
「私は元々残り物だから」
誰も喋らない。
アークは続ける。
「本体はずっと昔に死んでいる」
淡々と。
まるで他人事みたいに。
「私は計画の管理権限として残された人格の一部に過ぎない」
その言葉に。
ガラムドからメッセージが届く。
『事実です』
「今そこ補足しなくていいから!」
思わず突っ込む。
『失礼しました』
全然悪いと思っていない返信だった。
だが。
空気は重いままだった。
エルザさんが一歩前へ出る。
「待って」
震える声だった。
「消えるの?」
アークは答えない。
少しだけ笑う。
その笑顔だけで十分だった。
「嫌だ」
エルザさんが言う。
即座に。
「嫌だよ」
その言葉に。
アークの表情が僅かに揺れた。
「今さら」
エルザさんは続ける。
「今さら全部終わったみたいな顔しないで」
唇を噛む。
「勝手過ぎる」
その声は怒っていた。
でも。
本当は悲しんでいた。
「千三百年も放置して」
「好き勝手やって」
「勝手に諦めて」
「最後だけ格好付けるな」
沈黙。
アークは何も言わなかった。
言えなかったのかもしれない。
すると。
隣で少年がぽつりと呟いた。
「消えるのは」
小さな声。
「怖い」
全員がそちらを見る。
少年はアークを見ていた。
「僕は今」
自分の胸を押さえる。
「それが怖い」
赤い瞳が揺れる。
「だから」
一歩前へ出る。
「あなたも怖いんじゃないの」
アークが目を見開いた。
ほんの少しだけ。
本当にほんの少しだけ。
千三百年間ずっと余裕を崩さなかった男が。
初めて言葉を失った。
そして。
長い沈黙の後。
小さく笑った。
「そうか」
その声は。
どこか救われたようだった。
「なるほど」
白い翼が微かに揺れる。
光の粒が夜空へ舞い上がる。
そして。
アークは静かに目を閉じた。
「お前は」
少年を見る。
その眼差しにはもう敵意も警戒もなかった。
「本当に変わったんだな」
その瞬間。
誰にも見えないどこかで。
運命の歯車が。
静かに動き始めたような気がした。




