第47話 恐怖
誰も答えなかった。
答えられなかった。
――どうすれば良かったんだろう。
それはあまりにも単純な問いだった。
けれど。
その場に居た誰もが、その問いの重さを理解していた。
千三百年。
いや。
もしかするとそれ以上。
観測者は世界を見続けてきた。
文明が生まれるところを見た。
滅びるところも見た。
誰かが笑うところを見た。
誰かが死ぬところも見た。
その全てを失いたくなくて。
その全てを残したくて。
だから保存しようとした。
記録しようとした。
止めようとした。
それが間違いだったのか。
それとも。
途中までは正しかったのか。
観測者自身にも、もう分からなくなっているのだろう。
少年は立ち尽くしていた。
小さな身体。
細い肩。
その姿は、とても世界を揺るがした怪物には見えなかった。
むしろ。
迷子の子供だった。
自分がどこに居るのかも分からず。
どこへ行けばいいのかも分からず。
ただ立ち尽くしているだけの。
そんな姿だった。
静寂が続く。
長い沈黙だった。
だが。
その沈黙を破ったのはアークだった。
「どうにもならなかったんじゃないかな」
穏やかな声だった。
少年が顔を上げる。
赤い瞳がアークを見る。
アークは少しだけ笑った。
「少なくとも私はそう思う」
「……」
「私も同じことを考えた」
少年の瞳が揺れる。
アークは続けた。
「誰も失わせたくなかった」
「何も消したくなかった」
「文明も」
「歴史も」
「人も」
「思い出も」
その声は静かだった。
けれど。
そこには重みがあった。
実際にそう願い。
そして失敗した者だけが持つ重みが。
「だから世界を保存しようとした」
苦笑する。
「今思えば随分傲慢だったけどね」
少年は黙って聞いていた。
まるで授業を受ける子供みたいに。
真剣に。
必死に。
「でも」
アークは少し空を見上げた。
崩壊しつつある天井の向こう。
微かに見える夜空を。
「その時の私は本気だった」
ぽつりと言う。
「正しいと思っていた」
少年が小さく呟く。
「……僕も」
その声は震えていた。
「正しいと思ってた」
誰も何も言わない。
「失われるのが嫌だった」
少年は自分の胸を押さえる。
「消えるのが嫌だった」
「忘れられるのが嫌だった」
赤い瞳が揺れる。
「だから残そうと思った」
少しずつ。
少しずつ。
その声は小さくなっていく。
「でも」
そこで言葉が止まる。
喉の奥で何かが詰まったように。
「でも」
もう一度。
「みんな苦しそうだった」
沈黙。
その一言が。
何よりも重かった。
保存された人格たち。
複製された記憶。
切り裂きジャック事件。
都市伝説。
観測装置。
全部。
全部。
その言葉の中に含まれていた。
少年は下を向く。
「分からなかった」
震える声だった。
「助けてるはずだったのに」
握り締めた拳が小さく震える。
「どうして嫌がるのか」
「どうして逃げるのか」
「どうして怒るのか」
そして。
本当に小さく言った。
「どうして悲しそうなのか」
その瞬間だった。
エルザさんがゆっくり前へ出た。
誰も止めない。
アークも。
僕も。
ただ見守っていた。
エルザさんは少年の前まで歩いていく。
ほんの数歩。
それだけなのに。
妙に長く感じた。
少年は見上げる。
不安そうに。
怯えるように。
エルザさんは少し困った顔をした。
そして——苦笑した。
「それはね」
しゃがみ込む。
少年と目線を合わせるために。
「君が一人で全部背負おうとしたからだと思う」
少年が瞬きをする。
「全部?」
「うん」
エルザさんは頷いた。
「世界とか」
「文明とか」
「歴史とか」
「人類とか」
少し笑う。
「そんなの重過ぎるでしょ」
少年は何も言えない。
エルザさんは続ける。
「人間ってね」
少し考える。
言葉を選ぶように。
「案外、自分のことだけでも手一杯なんだよ」
その言葉に。
のぞみがうんうんと頷いた。
ひかりも頷いた。
僕も否定できなかった。
「だから」
エルザさんは優しく笑う。
「全部救おうとしなくていい」
少年の瞳が揺れる。
「失敗してもいいし」
「間違ってもいいし」
「分からなくてもいい」
静かな声だった。
けれど。
その場の誰よりも強い声だった。
「だって」
一拍置いて。
エルザさんは言った。
「君も生きてるんだから」
その瞬間。
少年の表情が固まった。
まるで。
今まで考えたこともなかった言葉を聞いたみたいに。
「……僕が?」
「うん」
即答だった。
「君が」
少年は黙る。
長い長い沈黙だった。
そして。
ゆっくりと。
本当にゆっくりと。
その赤い瞳に。
初めて涙が浮かんだ。
観測者としてではなく。
一人の少年として。
千三百年分の孤独が。
ようやく形を持ち始めていた。




