第45話 間違っていてもいいこと
その言葉は、あまりにも簡単で、あまりにも当たり前で、だからこそ今まで誰一人として疑うことなく受け入れてきたような言葉だった。
――間違っていてもいい。
人間にとっては、それは決して特別な考え方ではない。
学校の試験で間違えることもある。
進路を選んで後悔することもある。
誰かを傷付けてしまったり、逆に傷付けられたりすることもある。
そうやって失敗を繰り返しながら、それでも前へ進んでいくのが当たり前だった。
けれど観測者は違った。
千三百年という時間の中で、いや、もしかするとそれ以上の途方もない年月の中で、膨大な文明を観測し、無数の人格を解析し、世界そのものを保存しようとし続けてきた存在の思考の中には、「間違ったまま進む」という発想そのものが存在していなかったのだ。
だからこそ。
その一言は、観測者の根幹を支えていた論理そのものへ突き刺さる楔になった。
暗闇の中に浮かぶ無数の赤い目は、いつの間にか完全に停止していた。
先ほどまで不規則に明滅していた光も消え、周囲の空間を歪ませていた圧力も薄れ、ただ静かにエルザさんを見つめている。
その光景はどこか奇妙だった。
今まで圧倒的な恐怖の象徴であり、人間の理解を超えた怪物として立ちはだかっていた存在が、まるで先生の話を真剣に聞いている子供のようにも見えてしまったからだ。
「だって」
エルザさんはそんな視線を真正面から受け止めながら、いつもと変わらない調子で言葉を続けた。
巨大な観測者を前にしているとは思えないほど自然で、まるで放課後の教室で雑談でもしているかのような口調だった。
「人間なんて毎日間違ってるし」
その言葉に、隣でのぞみが何度も頷く。
「それは本当にそう」
「お前はまず反省するところから始めろ」
ひかりが即座に突っ込む。
いつも通りのやり取りだった。
だが、そのいつも通りが妙に心強かった。
世界の命運だとか、千三百年前の因縁だとか、観測者の崩壊だとか、そういう巨大な話の真ん中に居るはずなのに、なぜか僕たちは普段と変わらない会話をしている。
それが少しだけ可笑しかった。
エルザさんも小さく笑いながら続ける。
「失敗もするし」
「後悔もするし」
「自分では正しいと思って選んだことが、後になって間違いだったって分かることもある」
静かな声だった。
けれど、その言葉には妙な説得力があった。
それはたぶん、彼女自身がそういう経験をしてきたからなのだろう。
エルディアとして生きた時間。
エルザとして生きてきた時間。
その両方を知っているからこそ言える言葉だった。
「でも」
一度だけ言葉を切る。
そして少しだけ遠くを見るような目になる。
まるで、自分自身のこれまでを振り返るように。
「それでも生きてるんだよ」
その瞬間だった。
観測者の身体が大きく震えた。
轟音にも似た音が響き渡る。
しかしそれは攻撃の音ではない。
悲鳴だった。
巨大な存在の内部から漏れ出した苦悶の声のように聞こえた。
都市のように広がっていた構造体の一部が崩れ落ち、塔のように聳えていた輪郭が音もなく歪み始め、空中へ舞い上がった無数の赤い光が流星群のように暗闇へ散っていく。
その光景は破壊というより脱皮に近かった。
何かが壊れている。
だが同時に、何かが生まれようとしている。
そんな不思議な感覚があった。
『崩壊進行率四十二パーセント』
ガラムドからメッセージが届く。
その表示を見た瞬間、僕は思わず叫んでいた。
「やっぱり駄目なんじゃないか!」
だが。
アークだけは静かに首を横へ振る。
「違う」
その声は驚くほど落ち着いていた。
「壊れているんじゃない」
彼は崩れていく観測者を見上げながら、どこか懐かしいものを見るような目で続ける。
「変わっているんだ」
その言葉を聞いた瞬間、不思議と胸の奥がざわついた。
変化。
たったそれだけの言葉なのに。
千三百年間変わることなく存在し続けてきた観測者が、今ようやく変化というものに触れようとしている。
そして変化というものは、時として崩壊と見分けがつかない。
人間だってそうだ。
子供が大人になる時も。
価値観が大きく変わる時も。
大切な何かを失って前へ進む時も。
外から見れば、一度壊れてしまったようにしか見えない。
けれど、その先には必ず以前とは違う自分が居る。
エルザさんだってそうだった。
エルディアへ戻るのではなく。
エルディアを知った上で、それでもエルザとして生きることを選んだ。
だからこそ。
今観測者に起きていることも、もしかしたら同じなのかもしれない。
その時だった。
観測者が再び口を開く。
――理解不能。
その声は以前とは明らかに違っていた。
機械的な音声ではない。
迷いそのものが言葉になったような、不安定で脆い響きだった。
――保存しない。
――失う。
――後悔する。
――それでも。
長い沈黙が流れる。
無数の赤い目が揺れる。
そして観測者は、まるで初めて歩く子供が足を踏み出すような慎重さで、次の言葉を紡いだ。
――なぜ。
「簡単だよ」
エルザさんは即座に答えた。
少しも迷わずに。
「後悔したくないから」
そう言いながら、すぐに首を傾げる。
「あ、違うかな」
少し考えて。
困ったように笑う。
「後悔するって分かってても選ぶ時があるから」
その言葉を聞いた瞬間。
観測者は完全に沈黙した。
今まで積み上げてきた全ての理論の外側にある答えだった。
合理性では説明できない。
最適解でもない。
それでも人間は選ぶ。
間違うと分かっていても。
傷付くと分かっていても。
それでも手を伸ばす。
「人間ってそういうものだと思う」
エルザさんの声は、どこまでも優しかった。
責めるわけでもなく。
否定するわけでもなく。
ただ当たり前のことを教えるように。
その優しさに包まれるように。
観測者の巨大な身体は、ゆっくりと、ゆっくりと縮み始めていた。
まるで長い長い夢から目覚める者のように。




