第43話 選択肢(3)
――なぜ。
その一言が発せられた瞬間。
世界が静かになった。
先ほどまで空間を満たしていた圧迫感も、無数の赤い目から注がれていた得体の知れない視線も、観測者という存在そのものが放っていた巨大な異物感さえも、ほんの一瞬だけ後退したように感じられたのは、きっと気のせいではなかったのだろう。
なぜ。
それは人間にとっては当たり前の言葉だ。
子供ですら使う。
毎日のように使う。
だが。
観測者は違う。
千三百年間、あるいはそれ以上の時間を掛けて世界中を観測し続け、膨大な情報を蓄積し、数え切れないほどの文明や人格や歴史を解析してきたはずの存在が、今この瞬間まで一度も口にしなかった言葉だった。
答えではなく。
理由を求める言葉。
結果ではなく。
過程を知ろうとする言葉。
それが今。
初めて観測者の中から生まれた。
だからだろうか。
観測者自身も戸惑っているように見えた。
巨大な身体とも都市とも塔ともつかない異形の輪郭が不安定に揺らぎ、暗闇の中に浮かぶ無数の赤い目も、まるで処理し切れない情報に直面した機械のように不規則な明滅を繰り返している。
――なぜ。
再び問う。
今度は先ほどよりも少しだけ弱い声だった。
まるで。
誰かに質問しているというより。
自分自身へ問い掛けているみたいに。
「それは」
僕は口を開く。
だが。
続きが出てこない。
理由を説明しろと言われても難しかった。
友達を助けたい理由。
大切な人を失いたくない理由。
そんなものに理屈なんてあるだろうか。
いや。
あるのかもしれない。
心理学とか生物学とか社会学とか、そういう学問なら色々説明してくれるのだろう。
でも。
僕が今言いたいことはそういう話ではなかった。
「分からない」
結局。
そう答えるしかなかった。
観測者の赤い目がこちらを向く。
「分からないけど」
言葉を続ける。
「そう思ったんだから仕方ないだろ」
沈黙。
観測者は何も言わない。
「理由が必要なのか?」
僕は逆に聞き返した。
「助けたいと思ったら助けるし」
「一緒に居たいと思ったら居るし」
「居なくなってほしくないと思ったら守るだろ」
エルザさんを見る。
のぞみを見る。
ひかりを見る。
そして少しだけ笑う。
「少なくとも僕はそうだ」
静かな空気が流れる。
すると。
不意にアークが笑った。
本当に小さく。
苦笑にも似た笑みだった。
「全く同じ答えだ」
ぽつりと言う。
その横顔はどこか遠い昔を見ているようだった。
「千三百年前」
静かな声。
「私もそう答えた」
僕は目を見開く。
「え?」
「正確には少し違うかな」
アークは観測者を見上げる。
「私はもっと格好付けていた」
自嘲気味に笑う。
「若かったからね」
「今も見た目は若いですよ」
「見た目の話じゃない」
その返しに。
なぜかのぞみが吹き出した。
ひかりも小さく笑う。
こんな状況なのに。
こんな場所なのに。
少しだけ空気が和らぐ。
だが。
次の瞬間。
観測者の身体が大きく震えた。
空間そのものが波打つ。
遠くの壁が歪む。
トンネルの天井が一瞬だけ星空に変わり、次の瞬間には元へ戻る。
「っ!」
エルザさんが警戒する。
金色の光が指先へ集まる。
しかし。
攻撃ではなかった。
観測者は苦しんでいた。
そう見えた。
巨大な存在が。
世界を丸ごと保存しようとしていた怪物が。
今。
たった一つの疑問によって揺らいでいる。
――矛盾。
声が響く。
――保存は善。
――消失は損失。
――救済は最適。
赤い目が明滅する。
――しかし。
間が空く。
長い長い沈黙。
そして。
観測者は続けた。
――対象たちは。
――保存より現在を優先する。
その言葉に。
エルザさんが静かに頷いた。
「うん」
優しい声だった。
「だって今を生きてるから」
観測者が沈黙する。
「未来のために今を捨てたら」
エルザさんは少し考える。
そして。
笑った。
「たぶん未来も意味なくなると思う」
その瞬間。
観測者の無数の赤い目が。
一斉に彼女へ向いた。
まるで。
初めて見る未知の現象を観察する研究者みたいに。
そして。
僕は気付いた。
観測者は今まで人間を見ていた。
だが。
理解しようとはしていなかった。
観測していた。
記録していた。
分析していた。
保存していた。
けれど。
理解だけはしていなかった。
だから。
今起きていることは。
もしかすると。
観測者が初めて人間を知ろうとしている瞬間なのかもしれない。
その時だった。
ガラムドからメッセージが届く。
『皆さん』
『どうした』
『今』
数秒の間。
そして。
『非常にまずいことと』
『非常に良いことが同時に起きています』
「どっちだよ」
思わず突っ込む。
『私にも分かりません』
珍しく本気だった。
『観測者が変化しています』
嫌な予感がする。
『ですが』
次の一文で。
全員が息を呑んだ。
『変化の規模が大き過ぎて』
『このままだと観測者そのものが崩壊します』
沈黙。
そして。
暗闇の奥で。
観測者が三度目の問いを口にする。
今度は誰かへ向けてではなく。
本当に自分自身へ向けて。
――もし。
その声は。
これまでとは少しだけ違っていた。
機械の音ではない。
何かを迷う者の声だった。
――私が間違っていたなら。
その瞬間。
世界のどこかで。
何かが大きく軋んだ。




